日記・コラム・つぶやき

2011年5月 5日 (木)

大震災に関して、ご批判に答える

 この度の大震災に関して、ボクの書いた新聞のコラム(中外日報2011年4月26日)に対して、さまざまなご批判をいただき、感謝しております。それに対して、可能な範囲でお答えします。

 第一に、エリート的な発言だということについては、認めます。じつはこの原稿は、震災後かなり早い段階で書いていたもので、掲載が遅れました。そのために状況にそぐわなくなり、取り下げるように申し入れたのですが、行き違いがあって掲載されました。とはいえ、もちろん自分の責任で書いたものです。

 震災後、首相の復興のプランとして、高台に集団住宅を作り、車で海辺に通って漁業に従事する、などという案を高らかに打ち上げました。そんな案がそのまま通ったら怖いことです。それに対して、宗教や文化の研究者がもっと発言しなければならないと思って、いささか無理をして発言しました。その後、震災復興会議に赤坂憲雄氏のような方が入り、多少はその方面の意向も生きそうになってきました。そんなわけで、ボクなどがエラそうな顔をしてどうこういう必要はなくなりました。

 第二に、一億総懺悔的だということについては、確かにその面はあります。つまり、今回の問題が被災地だけの問題かというと、必ずしもそうもいえないように思うのです。妻の実家は東北ではありませんが、海辺の過疎の村です。若い人が流出して、独居老人だけになり、無人の家がどんどん増えています。そういうボクたちも義母の没後、家は無人になっています。列車は2時間に1本しか止まらなくなり、1軒だけあったスーパーも閉店して、買い物も不自由です。かなり前に原発を持ってくる案があったそうで、もしそうしたらもっと潤って発展していたでしょうが、反対が強くてその案はつぶれました。ですから、被災地の状況は、被災地だけのことではなく、日本の他の地域でも十分にありうることだと思います。もちろん、日本だけでなく、世界の他の地域も考えれば、しわ寄せはもっとひどいでしょう。被災地の復興を応援することはもちろん大事なことですが、問題としては、被災地だけに限られないのではないかと思うのです。

 そこで、第三に、震災を「天罰」と捉えるのをどうみるか、ということですが、確かに「天罰」という言い方をそのまま認めるような書き方をしたのは、不適切であったかもしれません。要するに言いたかったのは、単なる自然災害だけでなく、人災的な面があること、それに対しては、人間の智慧を超えた何ものかへの畏れを取り戻すべきではないかということです。

 「天罰」ということは、もともとの仏教にはありません。天人相関説(天人感応説)と呼ばれるもので、中国の漢代の儒教で主張されるようになりました。その場合の「人」は基本的には皇帝の政治です。政治が悪ければ、それに対して天が災害を下すというものです。天人感応が反政府運動に使われることもしばしばでした。毛沢東は1976年の隕石の墜落の際に、天人感応を持ち出して戒めたそうです。2008年の四川大地震の際には、被害地域にチベット人が多かったことから、それを中国のチベット弾圧に対する天人感応だという説がネットで流されたそうです。

 日本では、災害を神の怒りとみて、それを鎮めようとすることが多く行われました。ただ、政治の善悪に対して天が感応するという天人感応説は必ずしも一般化しませんでした。日蓮の場合も、天人感応説とはただちにイコールではありません。世の中が邪法を信ずれば、国を守護していた善神が去り、悪神が跋扈して災害が起るというものです。それに対する根拠付けは、『金光明経』などの大乗経典によっていますが、やはり東アジア的なものでしょう。その点で、天人感応的な要素を受け継いでいるのではないかと思います。今回、ダライ・ラマは震災をあくまでも自然的なものと見たということですが、チベット系仏教にはそのような発想はないのかもしれません。

 もちろん、災害はあくまで自然のものだという割り切った見方もできるでしょう。でも、先にも述べたように、人口が大都市に集中して、不便な地域が過疎化して見捨てられるというような、日本の社会の歪んだ構造が、弱者に被害を集中させるような結果を招いたという、人災的な面がなかったといえるでしょうか。あるいは、原発が過疎化した地域の村興し、町興しの切り札として使われたということがなかったでしょうか。

 それならば、あくまで科学的に方策を考えるべきだと言われるかもしれません。しかし、すべて人知で解決がつくという見方ではいけないのではないか、というのがボクの考えです。今回の原発事故に対しては、地震学者からの警告が早くからあり、それを原子力の専門家が無視してきたということが指摘されています。その点では、研究者の落度です。しかしまた、学者がいつもきちんとあらゆる想定をして、最適の判断を下せるはずだというのも、いささか学問過信のように思います。それほど科学を信じきることはできないと思うのです。「想定外」ということは、いつもありうることと考えなければいけないのではないでしょうか。

 そうとすれば、自然を超えた海神や竜神の信仰もまた、まったく否定し去るのは間違いだと思うのです。五穀豊穣を神に祈るのを迷信的だと決め付けて否定することには、ボクははっきりと反対です。人間の越権に対して怒る神もいるかもしれません。善神が国を去り、悪神がはびこるという説を、頭からありえないこととして否定してよいものだろうか、と思うのです。

 それは確かに、もともとの仏教的というよりは、神仏習合的な日本仏教の考え方だと言われるでしょう。上座部仏教やチベット仏教の立場からは、とても仏教とは認められない、と言われるかもしれません。さまざまな立場があってよいとおもいますが、少なくとも、このような立場もありうることとして、考慮していただいてもよいのではないかと考えています。

 反論を期待しております。

2011.5.5

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