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2020年8月24日 (月)

「パンなし」か、「パンのみ」か

 前回の記事には、非常にていねいなコメントを二つも頂きました。十分に理解できる内容ですが、結局のところ、「パンなしには生きられない」か、それとも「パンのみでは生きられない」かという問題になってしまい、水掛け論になりそうです。

 かつて、サルトルは「飢えた子供たちに、文学は何の役に立つのか」と正面から切り込みました。確かにその通りだと思います。地球上に、それこそパンのかけらもなく飢え死にしていく子供たちに、私たちの学問が何の役に立つのか、という疑問の前には、常にたじろぐ他はありません。それに対しては、どんな自己弁護をしたところで、むなしい言い訳に過ぎません。

 しかし逆に、すべての人がマザーテレサになれるのか、あるいはもっと端的に、お前はマザーテレサのように、飢えた子供のためにすべてを投げ打てるのか、と問い詰められた時に、正直を言って、できない自分を認めないわけにはいきません。できないことを認めた上で、それでは自分に可能なことは何なのか、と考えれば、自分の学問が、ものすごい回り道でも、必ずそれに対して一歩でも進められることを信じ、その方向に進路をとって行くしかないと思うのです。

 少し話がそれたかもしれません。研究者の就職の話に戻しましょう。確かに、博士課程を出て、博士号も取ったのに、就職がないのは理不尽だ、というのは分かります。お前は定年まで勤めて年金までもらって、何とか生活できている以上、何を言う資格もない、と言われてしまえばそれまでです。私は別に職のない研究者の救済活動をしているわけでもありませんし、するつもりもありません。職のない研究者が団結して組合を作り、職をよこせという運動をするのならば、賛同はするでしょうが、自分からそのような運動を立ち上げるつもりはありませんし、そもそもそんな運動を始める立場でもありません。

 博士号を取った人には必ず研究職が与えられるべきかというと、今日の制度ではなかなか難しいでしょう。はじめから博士課程を狭くして、就職があるのに見合うだけの人数しか入学させない、ということにすれば、よいかもしれませんが、それは賛成できません。それだと、就職口の多い専門だけが多数の院生を入れることができて、そうでない分野は院生を入れられないので、ますます研究が停滞するという悪循環になります。

 もちろん大学院の定員を無理やり満たせという以前の文科省の方針は、まったくおかしなものであり、それだとそれこそ定員を満たすためにまったく実力もない人も入学させなければならなくなります。それはあり得ません。

 とは言え、定員が増えれば、ある程度は入学者も増えます。大学院重点化以後、博士量産になって、論文指導や審査に教員の負担が非常に重くなりました。それによって、自分の研究時間を相当削ることになります。ただ、ある程度学生の人数が多い方が、研究室が活性化するということはあります。

 私の専門だと、重点化以前から東大と京大でまったく逆の方針を取っていました。京大は少数精鋭主義で院生の人数を絞り、東大はある程度数を多くとって活性化するという方針でした。その基本的な方針は重点化以後もあまり変わらないようです。どちらがよいとも言えません。ただ、東大方式だと、確かに就職にあぶれる学生が多く出てしまうのは、事実です。

 以前は就職のためには博士号を取ることが必要だと言われていたのが、今では、それでは足りずに、本を出すことが、ほとんど条件に近くなっています。博士課程を終えて、学振の特別研究員か任期付きの研究員をしながら、博士論文に手を入れ、出版にまでもっていくということが求められます。そうなると、その内容がオープンになりますので、その質が問われることになります。フェアと言えば、フェアでしょう。

 ただ、実をいうと、今の大学への就職は、実力や業績だけと言えないところがあります。今の大学、とりわけ私立大学は完全に私企業です。ですから、大学として使いやすい人材を求めます。実力があっても、自己主張が強いとか、上に逆らう、というような人は敬遠されます。これは嫌なことですが、それに順応するか否かは、本人次第としか言えません。

 そんなわけで、確かに博士号を取りながら就職がないという現実は厳しいですが、だからといって、直ちにその状況を変えられるかというと、なかなか難しいであろうと思います。私としては、ある程度近い領域であれば、研究内容にアドバイスを与えたり、必要な推薦状を書いたり、出版社の世話をしたり、というような個別的な対応は可能な限りしてきています。だからと言って、今の博士課程の制度自体を大きく変えて就職しやすくするのがよいかということになると、懐疑的です。

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コメント

末木先生が、「飢える子どもにとってのパンか文学か」・「持てる者がマザーテレサとなるか否か」等の究極の選択肢を挙げる論法で、現状擁護されましたことに深い失望を覚えました。現実問題においてこのような究極な問いかけをし、率直に「自分にはできない」と表明することにどれほどの意味があるのでしょうか。現状の大学研究職の在り方に疑問を持つ人は多数いらっしゃると思いますが、末木先生にマザーテレサのような活動を望む人がどれほど居るのでしょうか。
「大学として使いやすい人を望む」の「使いやすい」とはどういう意味でしょうか。大学経営としては一定の理解はできます。しかし研究職への人事権に強い影響力を持つ教授陣にとって「自身にとって使いやすい人を望む」ことでしたら、それこそがハラスメントの元凶であり、Yesマン的取り巻き・ポチ的院生の養成と使い捨てでしかないありません。
誰の目にも明らかな暴言・態度ならばハラスメントとして取り上げられることはあっても、取り上げられないように、自身に都合の悪い人間に対して、まことしやかな噂を流す等によって自分中心の空気を作り、また自身に刃向かわないであろう人間に対して、理不尽を振りかざしながらストレスを解消するような教授における恣意的研究環境は常態化しています。又文系においては、現在において尚、博士号を持たない教授が自身の狭い世界においてのみ研究環境を仕切っています。このような現状をご存じの上で、容認するか否か、動くか動かないかは末木先生の御自由です。また末木先生に組合の先頭に立って構造改革を求める運動をお願いするものでもありません。しかし末木先生でなくても、先生のような立場の方が意見して頂かなくては、文部科学省は誰の声を聴いてくれるでしょう。社会のハラスメントの源は教育現場にあると考えて間違いありません。


前回2つ目のコメントをさせていただいた者ですが、もちろん先生に「運動」や「就職しやすくする」ことを求めているわけではありません。私が読む限り、1つ目のコメントにもそのような内容はとくには見当たらないので、なぜ突然そのような話になるのか、ややとまどっております。
ポストを増やすには学生や研究機関そのものが増える必要があると思いますので、それは「運動」してすぐどうにかなるような問題ではないでしょう。
そうではなく、現在の公募プロセスにはあまりにも無駄が多いので、もっと合理化してほしいし、大学に正式な所属の無い研究者も研究を続けられるような配慮を求めたいというだけです。
これらの点を改善することは、日本における研究の活性化に寄与しないでしょうか?

大学に採用される人材ということでは、私立国立問わず、学閥はかなり影響しているように感じられます。

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