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2020年4月12日 (日)

大学の伝統と学問の自由

 新型コロナウイルスで、他の問題はぶっ飛んでしまいました。確かにこれで、世界の歴史は大きく変わりそうです。大学はほとんどすべて閉鎖され、授業開始延期か、オンライン授業になっています。そんな状態で、仕事も手に着かない現状で、大学問題のほうに手が回りませんが、先月触れた苅谷剛彦・吉見俊哉両氏の対談『大学はもう死んでいる?』(集英社新書)は、話題がちょっと散漫で、あまりいいと思いません。ただ、そこから芋づる式に読んだ吉見さんの『大学とは何か』(岩波新書、2011)は、勉強になりました。

 この本は、大学の歴史をざっくりと述べたもので、西洋における大学の成立と展開、そして日本の近代における大学成立と戦後の改革と、その流れがざっと見通せます。西洋の大学が中世に形成され、自治組織として外の政治権力と闘いながら学問の自由を作り上げてきたということは、よく言われることで、私もその程度の漠然とした知識しかありませんでした。しかし、そのような中世型の大学は1618世紀には衰退し、19世紀になると、ナショナリズムの高揚の中で、新しい国民国家型の大学ができてくるというのです。その代表がベルリン大学です。

 それに対して、日本の大学は、この19世紀型の大学を輸入したのが日本の大学です。1877年に東京大学ができますが、その前に1869年(明治2年)にすでに大学と呼ばれる組織はできていました。旧昌平坂学問所が本校で、蕃書取調所の系譜を引く南校と、西洋医学所の系譜を引く東校とからなっていました。ところが、翌年にはなんと中心となる本校が廃止となって、後に南校と東校を統合して東京大学となりました。

 この最初の「大学」は、西洋式の大学ではなく、律令の「大学寮」に由来する復古的なもので、儒学と国学を中心としていましたが、その本校が閉鎖になって、西洋の学問を輸入する南校と、実用的な医学を学ぶ東校が核となったわけです。その後、東京大学では、和漢文学科ができますが、その由来から分かるように、中心は輸入学問と実用学だったわけです。それが発展して、1886年に帝国大学になります。その後、京都帝国大学が1897年にできたことで、これまでの帝国大学は東京帝国大学となりますが、その間は、帝国大学は一つだったわけです。しかも、大日本帝国憲法が1889年に発布されるより前に、帝国を名乗っていたわけです。帝国大学令では、「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授」することを目的としていました。

 このように、日本の大学制度は、西洋の19世紀の新しい国民国家型の大学を輸入したのですが、ヨーロッパのように、下から積み上げたものではなく、完全に上から「国家ノ須要」ということを目的に作った大学だったわけです。戦後、変わったとしても、そこでは、自分たちの手で作り上げたり、闘い取った成果という伝統はないのですから、はじめから国家のための大学ということは明白でした。ですから、「学問の自由」などと言っても、所詮は「国家ノ須要」の範囲内のものでしかありません。

 ところで、ヨーロッパの大学は、19世紀に性質が変わったとはいえ、その起源は、ボローニャ大学は1158年、パリ大学が1232年という古い歴史と伝統を誇っています。それに対して、日本の場合、いちばん中核となる昌平坂学問所はもとは林羅山に始まる林家の私塾だったのが、寛政の改革で1790年に幕府直轄となったものです。ところが、それが明治の大学制度の中で消えてしまうという不思議な流れになっています。つまり、日本の古い伝統を受けていないのです。

 このあたりになると、吉見さんが論じていないことですが、江戸時代に源流が遡る大学は、私の知る範囲では、龍谷大学が1639年の西本願寺の学寮に由来するということですので、そのあたりがいちばん古そうです。それに対して、江戸時代は、昌平坂学問所をはじめとする儒学の学校はどうなったのでしょうか。昌平坂学問所は幕府直轄ですが、それに対して各藩は藩校を設けて、武士の教育を行ないました。また、個人の儒者が私塾を開きました。公立大学と私立大学のようなものですね。

 こうした藩校や私塾がどうなったかというと、私塾はほとんどなくなりました。ただ、幕末近くに作られたものは、福沢諭吉の慶應義塾のように、私立大学の名門になったものもあります。学習院は、孝明天皇の代に京都で公家のために作った学校ですね。それならば、藩校はどうなったかというと、一部は現在の地方の国立大学に引き継がれているようですが、旧制中学から現在の高校に繋がっているところが多いようです。

 そう考えると、儒教教育は確かに帝国大学では衰退しましたが、そのもっと基礎となる地方の中等教育の中に生き残ったように思われます。中等教育は大学以上に人格的な基礎となるもので、国民の中に浸透します。また、教員養成のための師範学校は、天皇主義的な教育が強く注入されます。そうして教育された教員が初等教育・中等教育を担うことになります。

 このように、日本の教育は、初等・中等教育は儒教をベースとした天皇主義、つまり教育勅語を中心とし、その上に、エリート養成の大学においては欧米の輸入学問を摂取するという、異なる原理に基づく重層的な形を取りました。そのギャップを埋めるために、旧制高校が機能を発揮します。旧制高校はそれまでの儒教的な教育を洗い流して、外国語をベースに欧米の新しい教養を身に付け、自由を謳歌します。こうしてエリートの自覚が形成されます。彼らは、エリート意識をもって「国家須要」の学問をし、それによって自ら国家の形成に参画していくことになります。

 旧制大学が、「国家ノ須要」の学問をしながらも、ある範囲で屈折した形の「学問の自由」の意識を育んだのは、このような理由に拠ります。つまり、彼らエリートは、初等中等教育で叩きこまれた儒教的な天皇主義を、旧制高校でいったんリセットして、今度は、自らの意志と新しい学問技術をもって「帝国」の形成に参画していくわけです。そこでは、「国家ノ須要」の学問を目指すことと、そのためにこそ自分たちの判断で「自由」な学問をすることとは矛盾しません。上から強制されるのではなく、自分から進んで行う「自由」こそが、本当の「国家ノ須要」の学問を育てることになるわけです。日本の大学における「学問の自由」はこのような由来を持つものと考えられます。

 戦後教育は、このようなエリート主義を排して、大学の大衆化に向かいました。新たに設けられた大学の教養課程は、エリートのための教養ではなく、誰もが身に付けるべき基礎的な教養を意図していました。大学の大衆化は60年代に大きく進展し、70年代初めには男子の大学進学率は30%を超えました。その中で、幅広い教養を身に付けて、その上で専門を学ぶなどという理想は次第に骨抜きにされていきました。大学は通常の企業と同じレベルの職場となり、大学教員は戦前のようなエリートではなく、ふつうの職業の一種であり、会社員と大差なくなりました。大企業ほど給料はよくないが、勤務体制がフレクシブルで、多少は自由な時間が多く、社会的ステータスがいささかある、程度の職業です。そのような中で、学問の自由がどれほどの訴える力を持ち得るでしょうか。学問の自由はもはや無意味化したと見るべきでしょう。

 制度としての大学は今、大きな転換期に来ています。学問もまた、大きく変質しつつあります。どのような理想を求めたらよいのか、混乱の状況はなお続くでしょう。

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