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2020年3月13日 (金)

ちょっと一休みの雑談

 一か月に一度記事を追加していますが、今月は一休みします。はなはだ個人的なことですが、引っ越しをしなければならず、老齢の身にはいささか応えて、ここひと月ほど何もできない状態です。今月いっぱいくらいで片付けばと思っています。書かなければならないことはあるのですが、身体も頭もついていかず、夜はぐったりして早寝しています。そんなわけで、本格的な議論になりませんが、雑談的なことだけ少し書きます。

 こんなブログですが、定期的にチェックしてくださる方がいて、有難いことです。いろいろとコメントいただき、考えさせられます。森新之介氏がブログで大きく取り上げてくれています。

  https://researchmap.jp/m80638718/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0

 私のブログを非常に詳しく読んで、批判をしてくれています。有難うございます。私の見方はあくまでも一面的でしかありません。こうして別の視点からの見方が提示されることで、問題が立体化して、複眼的な視点で見ることができるようになります。それはとても大事なことだと思います。

 「明治学院大学事件」の寄川条路氏からは、同氏の編集になるブックレット第三弾『大学の自治と学問の自由』(晃洋書房)を頂戴しました。今回は、明治学院大学事件と類似の他大学の事例が紹介されていて、いささか衝撃的です。「大学の自治」「学部の自治」の名の下で、何がなされてきたのか、これまで十分に反省されてきていなかったことが、厳しく問い詰められます。杉山和也氏の紹介する宮崎大学のハラスメント捏造事件には、あ然とするほかありません。大学の劣化ということが、深刻に考えさせられます。寄川氏の状況は依然厳しいものがありますが、このシリーズは継続の中で次第に問題が掘り下げられています。

 苅谷剛彦・吉見俊哉両氏の対談『大学はもう死んでいる?』(集英社新書)は、まだ読むに至っていません。ただ、苅谷氏の大著『追いついた近代 消えた近代: 戦後日本の自己像と教育』(岩波書店)は、感銘を受けました。これも引っ越しの荷物に入れてしまったので、今詳しく内容を紹介できないのですが、記憶だけで書きますと、追いつき型の日本の近代は、1980年代の臨時教育審議会(臨教審)ではっきり終わりが宣言されているということです。つまり、それ以後には追い付くべき近代のモデルが消えてしまったわけです。そえrが「消えた近代」ということです。1990年代から大きく日本も世界も変わります。それは、一時的な流行としての浮ついた「ポスト近代」などではなく、本当に近代が消えてしまった後、どうしたらいいのか、世界中が右往左往しているということでしょう。2010年代に入っての東日本大震災と原発事故、そして今まさしく世界を覆っているコロナウイルスのパンデミックも、そうした状況と無関係でありません。あたかもペストのパンデミックが中世の終わりを隠したように、コロナウイルスは近代にとどめを刺すものとなるでしょう。その後、どうしたらよいのか、それがこれから問われていくことになると思います。

 近代の消滅の問題はこのブログの趣旨からは外れてしまいますが、それをもう一度引き戻すと、おそらくフェイクの流行もまた、そのような時代の劣化、崩壊と無関係ではないでしょう。安倍首相をはじめとする一派の言葉の劣化は、「ご飯論法」として定式化されましたが、最近では「ご飯論法」にさえならない問答無用がまかり通っています。それは、アメリカのトランプに共通するもので、というか、まさに時代の劣化ということまでも、日本はまだアメリカの真似をして、追いつこうとしているのです。その政権に目の敵にされることで、朝日新聞などもまた逆の方向でフェイクに走ったと考えられます。もうそろそろそのような劣化を競うようなことはやめにしなければなりません。いや、劣化する連中はもっと劣化して、やがて没落するでしょうから、それに巻き込まれることなく、しっかりと未来に向けて何を築いていくことができるかを考えなければならない時期に来ているということでしょう。ちょうど戦争末期の頃に似ているかもしれません。

 というわけで、今回は雑談的なことで、お茶を濁します。ちなみに、自分のブログを見るということはあまりしなかったのですが、今確認してみると、ある分量に達すると、古い記事は見えなくなり、最近の記事だけが出るようです。たまたま古くからNiftyのアドレスを使っているために、そのサービスのココログというブログを借りているのですが、あまりよくないかもしれません。ちなみに、Niftyはインターネットが普及する前、はじめてパソコン同士で通信できるパソコン通信(パソ通)という手段を広めたという歴史があり、その頃からのユーザーです。まだWindowsもなく、MS-DOSのソフトを苦労しながら使いました。それも1980年代のことでした。そうして考えてみると、近代の消滅とネット文化の形成は深く関わっていそうです。


 

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