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2020年1月 8日 (水)

プライバシーはどこまで公共化してよいか

 伊藤詩織氏が山口敬之氏を訴えた民事訴訟の地裁判決で伊藤氏の勝訴が大きなニュースとなりました。この事件は、2015年に当時TBSのワシントン支局長であった山口氏に対して伊藤氏が就職の相談をし、会食の後、泥酔して判断力をなくした伊藤氏を、山口氏がホテルに連れ込んで、不同意のままに性行為に及んだというものです。

 この事件は、伊藤氏の告訴によって山口氏の逮捕が決まっていながら、警察上部の判断で逮捕が中止され、不起訴となったのが、同氏が首相と近くその宣伝役を果たしていたことによるのではないか、ということで大きなニュースになりました。それについては、さまざまな報道がなされており、ここで改めて述べる必要もないでしょう。

 ここで問題にしたいのは、性犯罪の場合、それを訴えることにより、本来表に出されない性行為の詳細までもが争われるようになることです。それは女性にとって耐えがたいことで、二重被害、セカンドレイプを蒙ることになります。しかも、今回のように、それが大きなニュースになれば、警察や裁判所の範囲の問題で済まず、密室での行為の一つ一つが不特定多数の徴収や読者に公開されてしまいます。

 さすがに、多くの報道ではその点を抑制していたようですが、山口氏のほうが会見でホテルの室内での伊藤氏の行動を逐一説明しました。被告として自らの立場を守るためということでしょうが、それは、もしどうしても主張しなければならないことだとしても、裁判の場で主張すべきことであり、会見の場で逐一語るべきことではありません。

 争点となったのが、性行為に合意があったかなかったかということで、密室での行動の一つ一つが問題にされてしまいます。しかし、密室で合意があったかどうかは、隠しカメラでもない限り二人だけのことであり、外部から判断しようがなく、水掛け論になるでしょう。そもそも就職の相談に来た異性を泥酔させ、ホテルに連れ込むことが、最初から許されないことであり、パワハラであり、セクハラになります。その中で半睡状態で合意があったかどうかを争うこと自体が、論点がずれてしまいます。もっとも今の法律では、就職活動中はまだ上司・部下の関係ではないから、パワハラにはならないようですが、立場上の関係は明らかです。ホテルに連れ込んだ時点で、どんな言い訳も認められないとすべきです。

 最近では、性犯罪の認定はかなり加害者側に厳しく、密室での合意の有無が争われても、かなり被害者側の言い分が通るようです。状況的によほどおかしいことがない限り、その流れは当然でしょう。ただ、不起訴になる例もしばしばあり、伊藤氏の事件も含めて、その際の理由が明確化されないために、不明瞭なところが少なくありません。逆に、満員電車で冤罪で痴漢とされたとき、それを反証することの難しさが言われています。それに対しては、手を下に下げないなど、疑われないようにするような自衛手段を取ることが必要になります。性犯罪に対しては、厳しく対処する方向を取るべきです。

 ところで、伊藤氏は会見で、山口氏を擁護した小川榮太郎氏の雑誌記事が、伊藤氏の下着の問題に触れたことに関して、「私はやはり女性として、下着を公開したくなかったです。それを公にされた」と訴えています。これは、二次被害の典型的なものです。本来、下着をどうしたかなどということが論点ではないはずです。

 個人のプライバシー、個人情報に関しては、このところ公的機関も報道もかなり慎重になっています。京アニ事件の時も、そのために被害者の名前の公表が遅れました。相模原の障碍者施設の殺人事件でも、被害者の一人の遺族が実名を名乗り出て公表されましたが、他は匿名にされています。国や警察が個人情報を理由に犯罪を隠蔽するようなことがあってはいけませんが、被害者のプライバシーが十分に保護されなければならないということは、絶対の前提でなければなりません。

 自死の場合、どうなのか。西部邁氏の場合、第三者を巻き込んでいたために、大きな問題となりました。最近も元衆議院議員の三宅雪子氏の自死がニュースになっています。私自身、以前自死について関心を持って、いろいろ調べて多少の文章を書いたこともあります。死に至る心の問題はそれはそれで大きな課題ではありますが、その場合でも個人のプライバシーには最低限必要以上には立ち入ることは許されません。遺族のプライバシーが問題になりますが、それと同時に、亡くなった方自身のプライバシーをあからさまにしてはいけません。

 西村玲氏の死をめぐる記事は、その点で私は許されないと考えます。確かに遺族であるご両親はそれを記事にすることを認めています。私も遺族のお気持ちは分かりますし、十分に尊重すべきと思います。しかし、40代の社会人である以上、遺族の判断だけがすべてとは言えないのではないでしょうか。遺族も、死に至る事情はあくまでも自費出版という形で、事情の分かる方にだけ公開しました。それは、決して不特定多数に公にされていいものではありません。

 記事は、三つの点で死者を侮辱するものです。

 第一に、就職がないから、生活の安定を求めて結婚したという筋書きです。それが成り立たないことはすでに書きました。もちろん誰でも生活の安定を求めるということはあるでしょう。けれども、それは結婚する二人の相互の愛情があることを前提として言えることであり、それが愛情よりも優先するはずがありません。

 第二に、氏の自死は結婚した相手に問題があったことが原因で、それははっきりしています。しかし、記事はそれを捻じ曲げて、あたかも就職がないことが原因で自死したかのように読み取れるように書いています。以前引用した田中優子氏のコラムも、「気鋭の研究者が大学に職を得られず自死したことが報道された」と書かれています。これは田中氏の誤解ですが、もとの記事自体がそのように読めるのであり、その点では、田中氏の読みは素直であって、誤解とは言い切れません。

 第三に、確かに彼女の結婚は失敗でした。しかし、それを不特定多数の人に対して公開する意味があるのでしょうか。私はそれは、伊藤詩織氏の言う、女性の下着を公にするのと一緒のように思います。結婚に失敗したかもしれないが、それは彼女の罪ではありません。職を得られないから、相手をよく選ばずに結婚して、それが悲劇を招いた、というような筋書きを描くのは、あまりに彼女を侮辱するものではないでしょうか。

 自ら死を選ぶという究極の選択をした人に対して、あたかもちょうどいい特ダネを見つけたかのように利用するということは、私は絶対に許せません。死者に対しては、まずつつしみをもって向かわなければならず、そのプライバシーを可能な限り尊重しなければなりません。また、生者であれ、死者であれ、結婚ということはきわめて微妙な問題を含むものであり、それに立ち入って第三者が、あたかも自分はその事情が分かっているかのように語り、ましてそれを事実のように報道するのは、とんでもないことです。

 もちろんこれは私の意見です。記事を書いたK記者には、K記者としての言い分があるでしょう。それをきちんと聞かせていただきたいと思っています。

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