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2019年6月25日 (火)

K記者との対話

 先日、K記者と会ってお話ししました。以下、K記者のご意見と私の意見をメモ的に記しておきます。K記者と私とは立場も意見も全く違います。でも、私は違う意見の方と議論することが好きですし、とても大事だと思います。どうしても同じ業界の中で似たような立場の人とつるんで、なあなあになりがちですが、違う立場で、違う意見の方と議論することで、それぞれの立場を反省し、何か新たなものを生み出せるのではないかと思うからです。今後も継続的に会って、できれば他の方にも加わっていただいて、研究会のような形で議論を進められればいちばんよいと思います。以下、個人の問題ではなく、一般化して考えたい問題ですので、個人名はイニシアルにします。なお、K記者には確認を取っていません。あくまでも私から見た見方ですので、その点、ご了承ください。

 

【報道のあり方をめぐって】

1、K記者はジェンダーバイアスはない、ということを強調していました。男性でも同じように書いた、と言いました。でも、そうでしょうか。男性でも、安定した職が得られないので、安定を求めて結婚したら、相手に問題があったので、離婚して自死した、というストーリーが同じように成り立つでしょうか。今の社会では、ちょっとそのストーリーは成り立ちにくいように思います。それなのに、女性の場合には、そのようなストーリーがあってもおかしくないと受け入れられてしまうのは、やはりジェンダーバイアスではないでしょうか。

 

2、K記者は、死者を利用した、ということははっきり認めましたが、それが悪いとは思わないという立場でした。自死に至るには、いろいろな原因が複合しているのは当然だが、その中の一つを取り上げてもよいということでした。あくまで報道は事実を伝えるだけだ、ということでしたが、すでにその「事実」が記者の主張に沿って作られたストーリーでしかないのではないか、ということが問題になると思うのです。今日、「事実」とは何か、ということが報道と関係して問われています。それは次の問題とも絡みます。

 

3、K記者から、「あなたの意見へはネットで批判がたくさんあって、いやな思いをしたでしょうが、賛成の人がたくさんいたから、それでいいではないですか」と言われて、ちょっとショックでした。最初にも書きましたように、私は立場の違う人との議論が大事だと思います。昔、東日本大震災天罰論をめぐって炎上しましたが、いちいちきちんと私の考えはブログで発信し、最終的に『現代仏教論』(新潮新書)にまとめました。私は批判されることは有難いことだと思っていますし、それでいやに思うことはありません。逆に、「いいね」の数が増えればそれでいいとも思いません。批判を受けることのほうが大事です。むしろ「いいね」の人同士がつるむことに今の問題があるのではないでしょうか。安倍・トランプ以来、互いに「いいね」の陣営が自分たちだけで固まる現象が起こり、それが報道にも及んでいます。K記者は、そんなことは現代の常識だと一蹴しましたが、しかし、その現代の現象に疑問を持つことが必要なのではないでしょうか。そして、その現象が客観的な外のことではなく、それに私たち自身も巻き込まれていることを自覚して、そこから抜け出していくことをしなければいけないのではないでしょうか。

 報道も学問も、今日、そのあり方が根底から問い直されているのに対して、「報道は事実を伝えるだけだ、学問は論文を書くだけだ」と、異業種が別々に壁を作ることがいいことでしょうか。それに疑問を持ったからこそ、この記事を書いたのではないでしょうか。相互に越境しつつ、その根底の現代の「知」のあり方を問い直すことが必要なのではないでしょうか。

 

【オーバードクター問題に関して】

4、記事で取り上げられたN氏は、T研究所の専任研究員でした。T研究所は著名なN博士が50年近く前に創設したものですが、その動機は、N博士の友人が若い頃職がなくて自死したことにショックを受け、少しでも職のない若い人の役に立つように、という趣旨でした。そのことは以前のブログにも書きましたし、私自身もN氏もその研究所に所属して、本当に助かりました。K記者は記事の中でそのことに全く触れていませんが、その理由は、「きちんと生活できる安定した職でなければ何の役にも立たないから」だということです。確かに、きちんと生活費を稼げる職がないことで、高学歴ワーキングプアの問題も生じます。しかし、50年も前からその問題を自覚し、何とかしようとして、大変な労力を割いて、努力してきたことはすごいことではないでしょうか。そして、実際にそれは、それだけの役割を果たしてきました。今日では、もはやそれが十分に機能しなくなっていることは事実です。しかし、最善の方法がないときには、次善の方法も考えるべきだと思います。今日どの大学でも、任期付きの研究員ポストを作るなどで、オーバードクター問題に対応しようと努力しています。そうした次善の努力はすべて意味がない、と完全に切り捨てるのがよいことでしょうか。私はそれはおかしいと思います。

 

5、この問題に法政大学の田中優子総長が毎日新聞のコラムに意見を出しています(これに関しては、出典を明らかにするために固有名を出します。田中優子「学問で食べられるか?」毎日新聞201958日 東京夕刊)。それに対して、K記者は非常に批判的でした。私は記事はざっと読んでいましたが、だいたい納得できることで、特におかしいとも思いませんでしたが、確かにネット上ではだいぶたたかれていたようです。記事はネットで見られます。

https://mainichi.jp/articles/20190508/dde/012/070/008000c

 文系の場合、以前のブログにも書いたように、昔から研究者の就職はないというのが当然で、田中氏の場合もそうだったようです。他の人に確認してもだいたいそのようですが、そのことがなかなか他の専門の人には理解されないようです。K記者にもどうもその点が通じないようです。最近、理系も文系と近い状況になってきたということでしょう。しかし、最近の報道では、理系では就職がないことが分かって、学生が博士課程への進学を避けるようになってきたということで、また変化してきているようです。理系と文系(人文系)とは、かなり事情が違い、慎重に区別しながら、議論していく必要があるようです。人文系の学問を人に説明するのは確かに難しいところがあります。それについてはまた別の機会に書きたいと思います。

 K記者のご都合で、次に会えるのは再来年になりそうですが、息長く、3年間くらいかけて、意見交換しながら、議論をまとめて行けたらと思います。他の皆さまも議論に加わってくださることを期待します。

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