« 天罰論再考 | トップページ | 自然災害説は間違っている »

2011年9月10日 (土)

地震は自然現象か?

 地震は純粋な自然現象だとする方々と、しばらく論争が続いています。僕は、純然たる自然現象とはいえない、という説です。一見おかしく聞こえ、自然現象説のほうが正しそうに思えるかもしれません。それは、僕の説明がいささか不十分で、十分に趣旨を理解していただけなかったからだと思います。そこで、少し説明を加えます。まだ分かりにくいところがあるかと思いますが、ともあれこれをお読みいただいた上で、ぜひ批判や疑問点のご指摘をお願いします。やはり相互にきちんと相手の主張を理解しなければ、建設的な議論になりませんので。

 もし誰も人がいないところで地震が起こり、被害が何もなければ、それは純然たる自然現象といえるでしょう。例えば、人類発生以前の地球で起こった地震の場合はそういえるかもしれません。もっとも、それが今日のボクたちのあり方に何らかの影響を及ぼしているのであれば、純然たる自然現象とも言えなくなりますが。

 あるいは、今回の大地震の場合でも、それを人命や生活上の被害と無関係に、それがどうして起こったか研究する場合には、純然たる自然現象として見ることになります。もっとも、その場合も、科学的営為という人間の行為が関わってきますので、その点では、純然たる自然現象とはいえません。本当に純然たる自然現象というのは、誰も知らないところで起った、人間の認知ともまったく関係ない場合、ということになりますが、それは知られないのであるから、問題にしようもありません。

 ここで問題にしたいのは、そのような場合でなく、さまざまな被害が起るような地震です。もちろん地震だけでなく、台風などの自然災害の場合も同じですが、ここでは、地震の場合を例としましょう。そのようなわけで、被害ということを別にして、自然現象と見ることはありえますし、自然現象として研究することは重要です。もし地震自然災害論者が、その意味で言っているのであれば、僕も賛成です。でも、そうではなく、さまざまな被害を含めて考えた時、それを純然たる自然現象と言えるかというと、僕はそうではないと考えます。

 寒川旭『地震の日本史』(中公新書)の「はじめに」に、こういう文章があります。

「ひとたび大地震が発生した場合、日々の暮らしを豊かにする文明の産物が、牙をむいて襲いかかってくる。家族の団欒の場である住居や家具、電車や自動車などの交通機関、橋梁や高速道路などの建造物が、私たちの生命を脅かす凶器に一変し、石油などのエネルギー資源が大災害を引き起こす要因となる。このように、都市化が進むにつれて被害の規模が拡大して複雑さを増すことになり、同じ地域が地震に襲われても、古代と現代では被害の様相が異なる。」(同書、ii頁)

 この言い方は非常に分かりやすいと思います。地震の被害は、かならずしも純然たる自然現象だけではありません。地震が起こり、津波が襲うところに人が家を作り、産業を興し、生活していることによって、はじめて被害が起るのです。人がどのようなものを作り、どのくらいの数の人が生活し、どんな文明を持っているかで、その被害も違ってきます。例えば、人口が少なく、家も木造で小さく、コンクリートもなく、電気もない時代であれば、同じ規模の地震であっても、はるかに被害は少ないでしょう。

 地震や津波の被害は、そのときだけでは済みません。命が助かればよいと言うものではなく、ずっと後まで生活が破壊され、精神的に苦しむ場合もあります。それまで含めて考えるべきでしょう。その時、それまでも自然現象と言えるかというと、疑問です。それは切り離して考えるべきだ、と言うかもしれませんが、すべてが一連である以上、切り離すことは無理です。もちろん、人間も最終的には自然の一部ですので、その意味ですべては自然だというのであれば、それは認めてもよいと思いますが。

 仏教では縁起ということを言います。もし地震は自然現象で人間は関係ない、というのであれば、人間と自然とは無関係で、縁起的な関係がない、ということになります。でも、それは仏教的に考えてもおかしいと思います。人間も自然も相互に切り離せない関係の中に入っている、それが縁起ということではないでしょうか。

 人は自然と対話しながら暮らしてきました。それこそ、もっとも自然な人間の生活です。ところが、自然は人間とは別だ、という考え方が近代になって入ってきました。別に僕は古いものは何でもよくて、近代のものは悪い、というわけではありませんが、少なくとも、今日あまりに常識化してしまった、人間と自然を分ける考え方は間違っていると思います。それは、自然を人間と無関係だとして、自然への関心を失わせ、自然を疎外することになってしまいます。自然と対話しながら、自然に対してどのように対応したらよいのか、自然と一緒に考えていく姿勢が必要ではないでしょうか。自然は自分たちとは別物だから、利用できるだけ利用すればよいとか、津波が堤防を越えたから今度は堤防をもっと高くする、というような、自然を拒否した一方的な対応だけでは無理と思うのです。

 ところで、僕は「自然の奥に神がいる」と主張してきたが、それは自然との対話ということとは違うではないか、と言われるかもしれません(ちなみに、『自然の奥の神々』というのは、内山節さんの本の名で、とてもよい本です)。そのことを説明しましょう。

 いま目の前にあなたがいるとします。あなたは、確かにある意味では、自然物質です。細胞からできているし、そのもとは原子、さらには素粒子に分解できるでしょう。そうであれば、僕が真向っているのは、純然たる自然現象とも言えます。でも、だからと言って、あなたは自然現象に過ぎない、とは誰も思わないでしょう。もし自然現象ならば、殺そうが、分解しようが、し放題ということになります。でも、あなたはあなたであって、純然たる自然現象とは違います。それはなぜでしょうか。心があるからだ、というかもしれませんが、心などというものは、見ることができません。本当にそんなものがあるかどうか、誰にも分かりません。そもそも、あなたが人間なのか、それとも人間の形をした精巧な人形であるのかさえも、本当は分かりません。

 それでも、あなたに対して、ものに対するのと違う対応をするのはなぜでしょうか。それを僕は他者との関係の持ち方の違いと考えます。ものに対するのと、あなたに対するのでは、異なる関係を結ぶということです。仏教的な言い方をすれば、どういう縁起的な関係にあるか、といってもよいでしょう。ここで大事なのは、別にあなたの奥に「心」という不変な実体があって、それが人間とそれ以外のものを分けているわけではないと言うことです。その点、仏教の無実体、無我の立場は正しいと思います。

 ですから、その意味では、人間だけが区別されなければならない必然性はありません。手近な例でいえば、もしかしたらペットとの関係のほうが、人間との関係より緊密な場合もあるでしょう。先の例で言えば、人間であるか、人間の形をした人形であるか、というのは、そのこと自体はどちらでもよいのです。鉄腕アトムのようなロボットがいれば、やはり「もの」に対するのではなく、人に対するように対応するでしょう。

 自然もまた、同様ではないかと思います。それを自分とは関係ないものだとして拒否すれば、それは純然たる自然現象ということになります。でも、そうではなく、自然も同じ仲間と考えれば、別の対応が出てきます。その時、海や山の「心」のようなものを考えたとしても、それを簡単に迷信的、前近代的で、笑うべき見方だと言えるでしょうか。

 「神」というのは、何か実体的にあるものではありません。自然の不思議さ、人知を超えた畏敬すべきあり方を言います。自然の「心」といってもよいと思います。ですから、「神」は人間に対して、人間的な道徳で対するわけではありません。「神」はすべて善神であり、人間に対してよいことしかしない、というような考え方は、かえって自然を人間の枠の中に取り込んでしまうことで、おかしいことです。自然は人知を超えた他者です。人間に対して害をなすことをするかもしれません。だからこそ、自然、あるいは自然の「神」と対話することが必要なのです。

 論争の発端になった「天罰」論に戻ります。「天罰」という言い方は、確かに誤解を招きやすい表現で、僕も違和感を持ちます。当初、石原慎太郎の「天罰」発言に賛成するような言い方をしたのは、自然を人間の営みと切り離して純粋自然現象とみる見方に対して、少なくとも、「天罰」という言い方は、人間の営みと関係させ、それを反省させる意味を持つと考えたからです。でも、石原の著作『新・堕落論』を読むと、副題に「我欲と天罰」とあるにも関わらず、「天」のことにはまったく触れずに、手前勝手な時代批判をするばかりで、まったく僕の考えていることと異なります。ですから、誤解を招かないように、石原「天罰」論への賛成は取り下げます。

 以上、取り急ぎ、僕の考えをいささか述べてみました。まだ不十分だと思いますが、ご指摘をいただきながら、お答えできればと思います。ぜひ生産的な論争になりますことを願っています。

« 天罰論再考 | トップページ | 自然災害説は間違っている »

コメント

末木 文美士 先生 様

「地震は自然現象か?」を拝読させて頂きました。

先生の真摯なるご考究に敬意を表させて頂きます。

この度も浅学菲才の未熟者の拙意見となりますが、コメント投稿をさせて頂きます。ご無礼の段、平にお許し下さいませ。

「人間も自然も相互に切り離せない関係の中に入っている、それが縁起ということ」(本文より)。誠にそのようであると存じます。複雑な相互縁起における諸現象の一つとして自然現象を捉える中で、私たち人間と自然現象との縁起関係において、自然とどのように向き合っていくべきであるのかは、様々に私たちに問われてくるところであると存じております。

しかし、上記のことは仏教における二諦において、世俗諦として捉えられることはあるとしても、勝義諦としては果たしてどうであるのかについてもやはり考えていく必要があるのではないだろうかとも存じております。

「誰も知らないところで起った、人間の認知ともまったく関係ない場合」(本文より)の自然現象に関しましては、「チベット仏教ゲルク派 宗学研究室」(http://rdor-sems.jp/)における「教理の考察・誰も知らない火事(齋藤保高氏)」(http://t.co/GWmNUQh)の内容が直接に参考になるのではないかと考えておりますが、それだけには留まらずに、教理の考察「誰も知らない火事」並びに「蟻の瓶と象の瓶」(http://t.co/LGdNG8g)(齋藤保高氏)」の内容を参考としての私なりの現段階における解釈での意見を以下に述べさせて頂きます。

中観帰謬論証派における第三の縁起としての「全ての存在は、私たちの意識作用・概念作用・思惟分別作用による仮名・仮説・仮設によっての依存関係で成り立っている」という見解は、「原因・条件と結果の依存関係」の縁起、「部分と全体の依存関係」の縁起に続いて、深遠なる縁起の考え方としてあります。

自然現象については、「原因・条件と結果の依存関係」の縁起、「部分と全体の依存関係」の縁起、そして第三の縁起におけることからも、その要素・性質・属性、効果的作用と私たちの営みとの関係性について、当然に色々と説明することはできるように存じております。

しかし、それはあくまでも世俗諦的においての域を抜けるものではなく、第三の縁起を深く鑑みた先の勝義諦的には、やはり自然現象は「単なる自然現象」と最終的には結論付けねばならないように考えております。もちろん、早計、短慮・短絡的に、「単なる自然現象」としてしまうのではなく、私たち人間と自然との縁起関係について十分に思慮・熟慮し、その縁起関係をしっかりと理解し、更には空性を理解した上においてということも大切であると思っております。縁起も空性も理解しないままに「単なる自然現象」と結論付けるわけでは決してございません。

ここからは少し余談となってしまいますが、これまでの以前の考察においては、当方は重大な過ちを犯しておりました。

縁起であるからして世俗有、空性であるからして勝義無と非有非無の中道を理解してしまっておりましたが、中観帰謬論証派の見解としては、空性であるからして世俗有、縁起であるからして勝義無として非有非無の中道を捉えなければならないと、最近になりまして少しずつながらようやくに理解することができて参りました。

そこからもまた色々とこれまでの論考を考察し直していかなければならないと考えております。

また、ダライ・ラマ法王猊下のこの度の東日本大震災に関してのお考えにつきましては、今秋のご来日の際におけるご法話にて、深遠なる縁起と空の理法から、更に何らかのご教示を賜れるのではないかと僭越ながらも存じております。

川口 英俊 合掌九拝

上記拙意見コメント投稿におけます文中のURLのリンク表示のところがおかしくなってしまっておりましたので、改めましてリンクに係るところを示させて頂きました。

どうかご了承の程を宜しくお願い申し上げます。

「チベット仏教ゲルク派 宗学研究室」
http://rdor-sems.jp/

「教理の考察・誰も知らない火事(齋藤保高氏)」
http://t.co/GWmNUQh

「教理の考察・蟻の瓶と象の瓶(齋藤保高氏)」
http://t.co/LGdNG8g

川口 英俊 合掌九拝

川口さんのコメント、有難うございます。それへの応答も含めて、新しい文章を準備していますが、いまサーバーが修理中とかで、少し遅れます。なお、Twitterが不調で、うまくログインできませんので、ご意見、ご批判は、必ずこのブログのコメントに入れてください。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/575132/52691833

この記事へのトラックバック一覧です: 地震は自然現象か?:

« 天罰論再考 | トップページ | 自然災害説は間違っている »