« 自然災害説は間違っている | トップページ | メモと近況 »

2011年9月25日 (日)

ご意見有難うございます

 僕の所論に対して、いろいろご意見をいただいて、有難うございます。

 川口さんには、貴重な情報を有難うございます。

 佐藤さんには、ご意見有難うございます。上座部仏教やチベット仏教に関しては、まったく知らないので、見当違いも多いかと思います。お許しください。ただ、業や心の問題が関係するということは、よく理解できますし、東アジアに伝わった『倶舎論』などの理論とも合致するところです。「業」の問題は、僕もまだ、どう理解したらよいのか、はっきりできないところがあり、正直を言っていささか避けています。さらにご教示ください。

 僕自身は、密教を中心とした日本仏教の考え方をどのように生かせるか、ということを考えていますが、既成の仏教教理そのものではなく、それを僕なりに組み替えたいと考えています。その前提から出発して書いていくと、非常に複雑になってしまいますので、とりあえずは『仏教vs.倫理』第20章をご覧いただければ、基本はご理解いただけると思います。「自然」を「他者」として捉えるということは、決して親密なだけのものとしてだけ捉えるということではなく、逆に理解不能ということが原点ですので、師さんのご批判には答えられると思います。もっとも、僕の他者論はやや特殊ですので、それ自体への批判はあろうかと思います。

 ただし、『東京新聞』(中日新聞)にも書きましたように、いろいろな見方があってよいと思います。立場の違いはあっても、一方で違いをはっきりさせると同時に、協力できることはしていければと思います。当初、石原発言是か非かという踏み絵的な二者択一で問題が出されたために議論の論点がずれて混乱しましたが、少なくともそれを超えて、生産的な議論を通じて、理解し合える基盤は作られたのではないかと信じます。

 自然現象説を槍玉に挙げるような書き方になったことは、これもお許しください。もちろん、佐藤さんのようなご理解であれば、まったく賛成であり、十分に協力していけると思います。しかし、例えば、玄侑さんのような方でも、地震と津波は自然現象で、原発はそうではないというようなことを言っておられるし、『在家仏教』9月号の巻頭言で、高崎直道氏も同じようなことを言っています。そうした言い方はかなり通俗的に広く受け入れられているのではないかと思います。それもひとつの立場かとは思いますが、原発と、地震・津波の被害を完全に切り分ける二元論になったら危険かと思います。原発も、ある意味では、地震・津波の被災地と同様に現代社会の縮図であり、連続的に捉えるべきではないかと思います。

 それと、何より重要なことは、震災は終った問題ではなく、これからの被災者の生活、被災地の復興、原発対策、そして、それと同時に、これから起るであろう首都圏の震災に対して、どのように対応していけばよいのか、という未来へ向っての問題も含みます。と言うよりも、それこそ最大の問題です。本当に必要なのは、それをどう考えていけばよいかという理論だということには、賛成していただけると思います。それに向って、ぜひ一緒に考えていくことができればと思います。

 自然は年毎に厳しくなってきています。東北だけでなく、最近の台風で、紀伊半島は壊滅的な打撃を受けました。そうしたことも含めて、僕たちの生活のあり方をもう一度根本から考え直さなければならないのではないかと痛感します。八ツ場ダム工事を続行すべきか否か、諫早湾の開門をどうするか、などの問題は、簡単な二者択一で答えられない難しい問題であると同時に、過去の我々の自然との付き合い方がよかったのかどうか、もう一度検討しなおすように問いかけているように思います。

 もっとも、このようなことがはっきり言えるようになったのは最近のことであり、これは議論の中で自分の立場が次第にはっきりできるようになってきたからです。僕の立場は、皆さんのように決定的な立場が最初から決まっているわけではなく、いろいろと試行錯誤しながら、突き当たり、曲がりくねり進んでいます。ご教示いただければ幸いです。

 ただし、正直を言って、Twitterにはもう関与しないつもりです。もともと瞬間的な判断力に欠けていますので、短く的確に書くことは無理です。それと同時に、たしかに災害時に、Twitter情報がもっとも早くて正確であったという利点もあるとは思いますが、少なくとも公共的な場に出すべきでない、人を傷つけるような言葉が数多く飛び交い、とても読むに耐えません。最近若い方に聞くと、ユーチューブの動画の中には、撮影禁止のところや、個人のプライバシーを侵害したようなものが多数あるということです。

 数年前、僕は自分の哲学を作り上げていくのに、HPを使いました。けれども、その後、ずっとHPからもブログからも離れていて、今回、はじめて臨時のブログを開設しましたが、これも今後定期的に更新していくつもりはなく、特別のことがない限り、閉鎖はしませんが、そのまま放置することになると思います。ネットを使いこなすのは、若いうちでないと、ちょっと無理で、とりわけ、時間をかける思索にはあまり向いていないように思います。

 ただ、前にも書きましたように、ネットに積極的に関わるみなさんには、ネットの倫理というのをきちんと確立していただきたいということを改めて強く要望します。そうでなければ弱者いじめの悪魔の所業になります。ネットを自在に使いこなす人は、他の人もみな同じようにできるとつい思いがちでしょうが、そうではなく、苦手な人はたくさんいます。当事者が見ていないところで悪口を言いあうのが、はたして倫理にかなうことかどうか、ぜひ皆さんの良識で判断してください。

 とりあえず、これから先に進むためには、少し時間をかけて、思索を深めていくことが必要ですので、しばらくブログを離れます。ただ、先に書きましたように、震災は過去の問題ではなく、現在、そして未来の問題でもあるという基本の立場から、発言すべきことがあれば、発言していきたいと思います。

« 自然災害説は間違っている | トップページ | メモと近況 »

コメント

 これ以上のことは、今後の論文等でさらにきちんと考えて行きたいので、そちらに譲ります。内容的にはようやく議論が深められ、仏教の中でも、業や心をどう解するかという大きな問題にまで到ったことで、出発点に立ったと思います。その点は評価したいと思います。僕の立場もある程度理解していただけたと思います。ただ、最後に繰り返しますが、手続きに関しては、どこまでも認めず、悪魔の所行という発言を撤回しませんません。当事者がいないところで、しかも、議論を本質的なところにまで深めることをせずに、石原発言是か非かということだけに歪曲して、リンチにかけるような行為は絶対に認めません。仏教者にあるまじき行為として今後も糾弾を続けます。知らぬ中でもないし、メールアドレスもご存知のはずですから、どのような形でも真意を問うことはできたはずです。実際、まったく未知の方でも、ていねいな手紙で真意を尋ねてこられた方もいます。もちろんきちんとご返事しました。どうしてそれができないのか、それほど僕に対してやましい思いがあるのか、不思議です。しかも、最初のツイッターに「また」とあるのは、これ以前に、何か僕の言葉に対して同じようなことをしていたことを意味します(それが何か知りませんが)。それを隠して表面だけ取り繕い、本人がいないところでは、仲間内で陰口を言い合うような態度は、偽善者の最たるものであり、絶対に許さず、どこまでも追及します。そのことだけ最後に書いて終わりとします。

コメント欄の方が先生の本音のような気もしました。
個人的に批判されるのはまったく構いませんが、批判の仕方はちょっと理解に苦しみます。

中外日報に寄稿された末木先生の記事は公共の言論空間に掲載されたものです。

それに対する批判をネットメディアを通じて行うことがなぜ悪魔の所行とか、リンチになるのか分かりません。アドレスを知っているからといって、メールのやりとりで事を終わらせてしまったら、それこそ仲間うちでこそこそ処理するようで、私はそういうやり方が嫌いです。

本質論云々というのであれば、手に負えないような自然災害に対して、主観的な情緒を勝手に投影して何か論じたつもりになっている、という点では石原慎太郎も末木先生も五十歩百歩ではないでしょうか?

「またか」というのは「末木先生がまたか」ではなく、石原慎太郎に続いてまたか、という失望の表現です。

はじめてコメントさせていただきます。(゚ー゚)

「地震」は自然現象です。人間がいなくても、地球誕生以来ずっと地殻変動はあります。

一方、「震災」は人間の営みが関係します。そこに人が住まなければ人の被害はないわけですから。

今回の震災を「天罰」というのは酷です。地震で堤防が壊れたり家が壊れたり、がけに家を作ったり、山の木を伐採したために山崩れしたら、それは天罰といえるかもしれません。
しかし、津波対策もやっていました。避難訓練も。
今回は津波が桁違いです。こんな津波もくるんだと、自然の驚異に驚くばかりです。しかし、人類は負けません。何回失敗しても、次々と立ち上がり向上していくのです。人類の過去はそうでした。

いずれ、太陽も燃え尽き、そのときは太陽系も消滅します。もちろん地球も。
先を見据えて、人類は対処していかなければなりません。自然を天罰と怖れていてはいけないのです。

自然を克服する力をもっているのが人類です。

末木 文美士 先生 様

川口英俊でございます。

前回に予告させて頂いておりました「勝義方便として、今回の東日本大震災における地震津波被害・放射能被害において、果たしてどのような具体的な現実的対応を取るべきであるのか」につきましての私なりの考えのまとめ投稿がまだとなってしまっており、遅れておりまして大変に申し訳ございません。

何とか十月内には拙意見投稿させて頂きたく存じております。

どうかご容赦の程を宜しくお願い申し上げます。

末木 文美士 先生 様

川口英俊でございます。

「勝義方便として、今回の東日本大震災における地震津波被害・放射能被害において、果たしてどのような具体的な現実的対応を取るべきであるのか」につきましての私なりの考えのまとめにつきましては、現在、ツイッターにて「 #勝義方便メモ 」にて少しずつ進めております。

#勝義方便メモ まとめNO.1
http://togetter.com/li/200586

ようやく少しずつ方向性が見えて参りましたので、もうしばらくお待ち頂けましたらと存じております。誠に宜しくお願い申し上げます。

川口 英俊 拝

末木先生、はじめまして

聖心女子大学で宗教学を教えている堀江宗正と申します。大学の授業で先生のブログを紹介し、議論して色々考えたことを、ご紹介したいと思います。

以下は、ツイッターに先ほど投稿したものです。ネットの世界は色々な人がいるので、話せる人とは話せるし、そうでない人は「華麗にスルー」して、毎日「水のような交わり」を、時間の許す範囲で楽しんでいます。

先生のお考えが今後、著書や論文として深まっていきますことを楽しみにしております。

***

大学の授業で、末木文美士先生の一連のブログ記事を学生に読ませて議論してもらった。とても議論しにくそうだった。いちばんの原因は、地震を自然災害として見ず、天罰としてみるというのは、そう信じる、信じないの問題であり、そもそも議論にならないということだ。

posted at 22:48:43

承前:もう一つの問題点は、「過去の仏教でそう言われているから」、というのは根拠にならないという点である。末木先生は、こういう考えもあるということを示して、単純な天罰論たたきに揺さぶりをかけたいとのことだが、それだけでは説得力がない。仏教だから正しいという前提は学生には通用しない。

posted at 22:52:17

承前:僕自身も同じ理由で、末木先生に対して仮に自分の意見を言っても、そもそも議論にならないだろうと見切って、放置していた。しかし、改めて読み込み、学生の意見を聞いて、あえて反論するとしたらどうなるか考えてみたら、ちょっと援護射撃をしたい気になった。

posted at 22:56:05

承前:まず、過去の天罰論(天譴論)は、「権力批判」をモチーフとしていたという点は指摘しておいてよいだろう。日蓮しかり、中国の天人相関説(天人感応説)しかり、御霊信仰もその一種と考えていいだろう。それに対して、石原都知事の天罰論は「民衆批判」であった。

posted at 23:00:53

承前:末木先生の天罰論支持に対する反発は、地震の被災者に対して、それを天罰だというのは、あまりに過酷すぎるというものである。しかし、末木先生のモチーフは「民衆批判」にはなかった。そのことを明確化するべきだった。

posted at 23:02:17

承前:それでも、人間と自然の関係を見直すのに、なぜ「宗教」を持ち出さなければならないのか。これについても、根拠を補強する必要がある。末木先生は、文字通りに「天」とか「神」がいて、人間のような意志をもって、地震をもたらしたと信じているのだろうか。もしそうだとしたら議論にはならない。

posted at 23:07:35

承前:なぜなら「教え」を無条件に無根拠に「信仰」することを要求するものになってしまうからだ。重要なのは、僕たちが今経験していることを、「天」という、人格神とも非人格的な自然とも言えない象徴を用いて記述することで、どのような倫理的変化がもたらされるのかを明らかにすることだ。

posted at 23:14:30

承前:もう一つ宗教を持ち出す根拠がある。それは人間文明が発展したことによって、かえって自然の脅威にさらされる面が顕著になってきたということである。それは人口の増大と関係している。人間は自然より圧倒的に強くなったから宗教的世界観は必要なくなったという見方は再考する必要が出てきた。

posted at 23:21:42

承前:それでも僕たちは、自然の脅威を否認して、技術的な未解決部分や想定外の事態は改善すれば大丈夫だと、自分に言い聞かせてきた。しかし、人間は自然をコントロールできないし、あまりにも地上に増えすぎたために、かえって災害の規模は拡大し続けるし、今後も自然に負け続けるだろう。

posted at 23:26:54

承前:「人間はいまだに自然よりも弱い」。これを認めれば、人間が自然よりも圧倒的に弱かった時代の、宗教の智慧や世界観を見直すことにも意味があるということが分かる。

posted at 23:30:58

承前:ただ、「教え」を頭ごなしに押しつけることには意味がない。僕たちが今経験していることを語り直してくれることが何よりも大事で、逆に、僕たちが今経験していることによって「教え」を語り直さなければならない。

posted at 23:32:00

承前:末木先生にもう一つ注文するとすれば、「縁起」の使い方である。人間と自然が不可分であり、地震は単なる自然災害とは言えないということを示すためだけに「縁起」を引っ張ってくるのは、「縁起」の思想のインパクトからするといかにも小さい。

posted at 23:35:19

承前:釈迦に説法になりそうだが。すべてが縁起、だから無我で無常であり、苦しいのはとらわれるから。縁起の理法を体得すれば、僕たちは一見苦しみでしかないようなこの世界にあって、今後どんな出来事が起きたとしても、この世界のあり方にのっとって生きていける。そう示すべきではなかったか。了

posted at 23:40:16

末木文美士先生

佐藤哲朗氏が先生の『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』について書いた酷い書評が存在することをご存じですか? もしもご存じなければ、ぜひ一度お読みいただければと存じます。佐藤哲朗という人の本質の一端がここに表れているからです。私は、こういう人をネット上に野放しにしておいてよいのだろうかと思うことがしばしばです。今後、彼と彼の師スマナサーラ長老とその周辺に関わられる際には、なにとぞお気を付けください。

(以下)

http://khipu.jp/php5/show.php/3000

『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』
末木文美士 / 新潮社(新潮文庫)

日本の仏教史は、よくも悪くも世界でもっとも振幅の激しい「仏教思想」史でもあります。なんだかワケわからない外来宗教を受け入れたものの、メンテナンス要員もろくにやってこないまま矛盾だらけのマニュアル(経典)と格闘せざるを得なかった日本人。

彼ら(我々)が千数百年に渡って脳みそをグルグル総動員して「仏教らしきもの」の本質を考え続けた、その偉大にして不毛な軌跡を一冊で辿れるので、「文庫で読む日本人の観念妄想博覧会」といった感もある。橋本治(東大の先輩)による解説文もすばらしい、超豪華な一冊。

2000-12-03 / 佐藤哲朗

通りすがりで失礼します。

もうお気づきだと思いますが、こういう人は有名な仏教学者である先生にことさら噛み付くことで、論客として自分の名前を売っているだけです。最初は友好的に近づいてきたのでしょうが、利用することが目的だったのですからまともに取り合っても仕方ないと思いますよ。仏教徒を称する者にもこのような人がいることはお釈迦様の時代から変わりませんねぇ(笑)

災難を罪や罰と捉えることは、自分の問題として主観的に捉える限りでは、宗教の本質に関わることですから宗教関係に投稿したものとしては妥当だと思います。この人たちは哲学的な意味を無視して、常識的な合理主義の立場で言葉尻を捉えて攻撃しているのだと思います。マスコミなどが引きずりおろしたい相手によく使う手ですね。たぶん他力思想なども全く理解できていないでしょうね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/575132/52830210

この記事へのトラックバック一覧です: ご意見有難うございます:

« 自然災害説は間違っている | トップページ | メモと近況 »