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2011年9月12日 (月)

自然災害説は間違っている

 少し挑発的な題をつけましたが、もちろん自然災害説が全面的に間違っているというわけではありません。地震や津波がなぜ起るのか、それを純粋な自然現象として、自然科学的に追究することは必要です。けれども、いま問題にしたいのはそのことではありません。多くの人が災害で亡くなり、多くの人が被害を受けられたことを問題にしたいということです。もしあえて分けていえば、地震自体は自然現象といってもよいでしょうが、地震被害は自然だけでなく、人間が関わっているということです。自然現象論者も、自分の説は被害のことは無関係だ、などと言うのではないでしょう。そのことをはっきりさせておく必要があります。そして、僕は被害の問題まで含めて考える場合に、自然と人間の生活は相互関係的に、つまり縁起的に考え、一体として見ていくべきだと主張し、それを純粋に自然だけが原因だという説を誤りだと批判します。

 なぜ、この問題が大事かというと、それが復興計画を立てていく上で、ポイントとなるからです。それを以下に論じます。

 なお、原発の問題との関係ですが、両者を切り離して、地震・津波は純然たる自然災害で、原発は人災だという論者も多くいます。一見もっともそうですが、僕は両者を切り分けることに反対です。もちろん、対応の仕方はまったく違いますが、いずれも人間と自然との関わりの中で生まれたということでは、本質的に連続しています。

 現在、復興計画が遅れており、非常に困難な状態が続いています。それは、災害の規模が大きすぎて、手が付けられないという現状もあります。先日、はじめて気仙沼や陸前高田に行って来ましたが、被災直後と変わらないままの状態に言葉もありませんでした。

 けれども、そもそも復興計画を立てる理念が欠けているように思います。小規模であれば、原状復帰ということで問題ありませんが、原状に戻せる状態でなければ、それに対して、どのような理念で新たな構想を描くか、ということが問題になります。

 その時、自然災害説からは適切な理念が生まれてこないのではないか、と思うのです。自然と人間生活を切り離してしまうと、自然災害は諦めるしかないということになるか、それへの対策を立てるとなれば、堤防を高くするとか、津波の来ない高台に住居を移転するとか、とかいうことしかないでしょう。しかし、堤防を高くすることには限界があります。高台移転ということは、一つの方針として認めうることです。しかし、現地をご覧になれば分かるように、高台などそれほど広くありません。そこに、従来規模の都市を作るなど、とても無理なことです。そのために大規模な造成を行い、山を切り開いて平地を作ったとしたら、それは新たな自然破壊を招くことになります。津波は来ないけれども、がけ崩れで巨大な被害が出る、ということも出てくるでしょう。従って、高台移転といっても、限界があります。

 そうすると、どうなるでしょうか。すでに被災地の人口流出は始まっています。恐らくそれはどんどん続くでしょう。もとのところに住めず、仕事もない、ということであれば、他の地域に移住するのも仕方ないことでしょう。けれども、それによって、被災地はますます衰亡し、年寄りだけ残って、荒れ果てていく、という結果になってしまうでしょう。それでなくても、今回の被災地の多くの地域は、交通が不便で、海岸沿いの僅かな平地に点線のようにつながっている小規模な都市や村落で、以前から過疎化が進んでいたところです。

 この地域だけではなく、今日、少子高齢化によって、各地域の過疎化は厳しい状態にあります。このことは以前の文章で指摘しました。平成の大合併などと大騒ぎをして、実質的には過疎地の切捨てで、どの地域も自然がどんどん荒廃しています。自然は自然のままで放っておけばよいのではないのです。人が関わらないと、自然はますます荒れて、手が付けられなくなっていきます。

 それならばと、被災地の漁業へ、外部資本の導入という案も出て、いまのところ地元の反対でストップしています。外部資本の導入は危険です。外部資本は、儲かる限り資金を投入しますが、もし儲からなくなったら、地元のことなど考えずにさっさと引き上げます。そうすれば、もっとひどい荒廃が残るでしょう。原発を誘致した過疎地は、同じ発想で、地元振興のために誘致しました。それがどんな結果になったかは、よく分かるでしょう。同じ轍を踏んではいけません。

 同じ意味で、環太平洋経済連携協定(TTP)に安易に加入して農産物の輸入を自由化して、日本の農業をつぶすことは、とんでもないことです。小規模な農業が自然と人間の橋渡しをして、自然保護に尽してきたことをもう一度再認識しなければなりません。その役割をこれから何がどのように担っていけるかという構想をきちんと描くことなしに、つぶしてしまいことはまったく危険なことです。

 過疎化の問題は、他方で大都市、とりわけ首都圏の巨大化の危険と裏腹です。首都圏の地震は必ず起こると予想されています。そのときの被害がどれほどになるか、誰にも想像できません。東日本大震災の時でも、東京は帰宅難民でごった返しました。まして、直下型の地震が起こったら、どうなるか、そんなことは考えたくありませんが、それでも実際に必ず来ることです。

 地震は自然災害だという論者は、それも仕方ないと言うのでしょうか。地震を自然災害とする論者を許せないのは、この点です。手を束ねて何もせずに、起ってしまえば、どんな巨大な被害も自然災害だから仕方ない、というのでは余りに無責任ではないでしょうか。それは、宗教の問題ではなく、政治の問題だ、とでも言うのでしょうか。しかし、政治に理念を示すのは宗教ではないのですか。人が必ず死ぬと分かっていながら、それは自分の役割ではないと言って、そっぽを向こうと言うのですか。それを放棄したら、宗教の役割とは一体何なのですか。何か起った後の「心のケア」だけが宗教の問題ではありません。もっと大事な、根本の理念を示すのこそ宗教の本当の役割ではないのですか。もし誰も耳を傾けてくれなくても、それでも最大限の努力をすべきではないのですか。

 今日一番大事なことは、首都圏の巨大化と、それに対する地域の過疎化とのバランスをもう一度考え直し、人間と自然との相互関係を取り戻していくことだと思います。その過程で、伝統的な日本の宗教はもう一度重要な役割を果たしうるのではないかと考えます。伝統的な日本の宗教は、自然と人間の橋渡しをしてきました。それは、かつての小規模な農業が果たしていた役割と一体になっていたところがあります。今日、状況が変わり、伝統的な宗教も危機に瀕しています。それも仕方ないところがありますが、でも、その役割をもう一度考え直し、その役割をどのように新しい形で再構築できるか、これをきちんと考えることは急務だと思います。

 震災を自然災害と考える論者は、医学で言えば、二、三十年前の西洋医学のようなもので、癌になれば、切るしかない、切って治らないものであれば、それは放置して、それでも延命は必ずする、というような考え方に近いものです。それは、病気を自然現象と見るからです。今日の医学は違ってきています。病気は単なる自然現象ではなく、患者という人間の生き方と密接に関わっています。患者の生き方に従って、さまざまな療法がありえます。その中で、医療従事者自身のあり方も問われています。そのような総合性の中で、病気というものが捉えられるようになってきています。

 今の日本の宗教者はあまりに鈍感です。経典解釈でどうとか、世界の宗教界のトップリーダーがどういったとか、中観派解釈ではどうなるとか、それもよいでしょう。でも、大事なことは、その理論が現実にどのように適用できるか、ということです。それを他人の借り物の理論ではなく、本当に自分の身についた理論として考え抜くことです。現実に力を持たない理論は、理論としての役割を果たしません。

 先日も被災地の浄土真宗の僧侶の方が、こんな大変な状況なのに、本山では、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」は違うなどと言っていて、何になるんだ、と怒っていました。復興のための努力が、「聖道の慈悲」であろうが「浄土の慈悲」であろうが、そんなことを議論するのは空虚です。世俗諦であろうが第一義諦であろうが、どちらでもよいことです。本当に現実に力を持つ理論を築かなければならないのです。

 僕は、現実の力になろうと言う方であれば、どなたとでも力を合わせていきたいと思います。僕は、現場でボランティアとして力仕事をする力がありません。僕にできることは、少し離れた場で、歴史と現実を見つめ、そこからどのような理論を構築し、宗教的な理念を示すことができるか、ということに力を尽すことだけです。

 自然災害論者の方も、その理論から現実への有効な対応ができるのであれば、協力します。違う説でも相互に議論し、認め合い、よりよい方向へ向って協力していくことは不可欠です。僕も自分の説が絶対とは思いません。と言うよりも、試行錯誤の連続ですので、欠点だらけでしょう。それは、批判を受けながら修正してきます。けれども、自然現象だから諦めるほかないというような無責任なことを言って努力を放棄するのは間違っています。あまつさえ、まじめに考えようという人を、議論もせずにツイッターとやらで嘲笑し、暴力的に抹殺しようというのであれば、それは仏教者とは言えない悪魔の所行であり、僕は絶対に許しません。断固闘います。

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コメント

末木 文美士 先生 様

真摯なるご教授を賜りまして、誠に恐縮致しております。

「・・大事なことは、その理論が現実にどのように適用できるか、ということです。それを他人の借り物の理論ではなく、本当に自分の身についた理論として考え抜くことです。現実に力を持たない理論は、理論としての役割を果たしません。」(本文より)

「・・本当に現実に力を持つ理論を築かなければならない」(本文より)

上記の先生の言、重く受けとめさせて頂きます。浅学菲才の未熟者、猛省致すこと限りなしでございます。当方、理論と実践の兼ね備えは大きな課題であると深く認識致しております。

以前は、やみくもに慈悲の実践だ、利他行の実践だと、ある意味で盲目的に、立場を弁えず、理論をしっかりと構築させずにボランティア活動・福祉活動・市民活動と取り組んだ時期がございましたが、10年も満たない内に、理論・理念の薄さが祟ってか、モチベーションが維持できず、実践にほころびが生じ始め、今は以前ほどは精力的にはなれずに、人並みほどでしかできていないようになってしまっております・・

言い訳になるかもしれませんが、雑事に追われ、また立場的にもそう無理はできないようになってしまう中、周りに迷惑を掛けてまで、やみくもに取り組んでも所詮は自己満足に過ぎないのではないか、自身地に足付けれないままに進めてもどこかで無理が祟るのではないか、と臆病になってしまっているのかもしれません・・

そこで、私は仏教の慈悲・利他行の実践のためには、やはり智慧をしっかりと学ばなければならないと、初期仏教からチベット仏教まで、顕教の範囲内に過ぎませんが、今は理論・理念構築に取り組んでいる次第でございます。もちろん、浅学菲才の未熟者ゆえに、多々失敗、足踏み等反省はございますが・・

自身、今一度、先生のおっしゃられるように、「本当に現実に力を持つ理論」を「自分の身についた理論として考え抜くこと」で、必ずやその理論を実践へと結びつけ、本当の慈悲・利他行ができるように調えて参りたいと存じております。

ご教授、誠にありがとうございます。厚く感謝申し上げます。また、思うことがございましたら、コメント投稿、意見交換のお許しを頂けましたらと存じております。取り急ぎの拙文となりまして大変に失礼致しました。

川口 英俊 合掌九拝

川口さん、もろさんのご意見、有難うございます。知ってるどうしでいささか閉じた範囲の議論のような気もしますが、それでもご意見をいただけることは嬉しいことです。それを絶望的と見られるとすれば、仕方ありませんが、僕にとっては、議論を進める中で、だんだん論点が明確化してきているようで、自分なりに整理できるようになってきています。論点を明確化させるために、単純な二分法を使っているところがありますので、それはもろさんの批判が当っています。本当はそんなに単純化できないことはよく分かっています。この頃、だいぶ僕は伝統主義者になっていることは事実です。桑子さんや内山さんにはだいぶ共感しますが、それでも完全にそれに同化するわけではありません。僕の伝統主義は、今の日本の仏教界にもう少しがんばってもらいたいというエールとお取りください。テーラヴァーダであれ、チベット仏教であれ、日本仏教であれ、たとえ違いがあっても、その違いをはっきりとさせながら、手を取り合って進めることを願うのは、甘すぎるでしょうか。

Twitterにもご意見がきているようですが、先にも書きましたように、なぜかTwitterへログインできなくなっていますので、読むことができません。ご意見はこちらにお寄せください。それから、少々過激な書き方をしましたが、みなさんのご意見の呼び水になればという意味ですので、ご了承ください(別に真意ではありません)。石原発言の問題については、すでに何度も書きましたので、わかっていただけたと思います。ただ、最初の時に、僕の意見を尋ねることもなく、一方的に非難がなされことは認めません。里山のことは分かりません。ただ、僕自身が老後住む候補地の一つと考えていたところが、どんどん過疎化して、ほとんど住めなくなっていくことに、非常に危機感を持っているだけであり、僕の考えが間違っているのであれば、それならばどうすればよいのか、ぜひよいご提案をください。このような問題を考えていくことを絶望的と思われる方は、別に加わっていただく必要はまったくありません。

このような議論は絶望的だというご意見に対して考えてみましたが、こうしましょう。批判のための批判や、ただ批判だけで終る議論は確かに消耗で、絶望的です。そこで、批判する場合には、必ず自分の立場ではこのような提言ができるという、プラス方向の積極的な提言を入れるようにしましょう。そうすれば、お互いにプラス方向へ向って議論ができると思います。また、結論だけ唐突に出すのでなく、必ず論拠も入れて相互に納得できるようにしましょう。議論は楽しみながら、相互理解を増すためにすべきものであり、憎しみや敵意をもってすべきものではありません。

末木 文美士 先生 様

お返事、誠にありがとうございます。碩学の大先生とこのような形で意見交換ができますこと、幸甚に存じ上げます。普通ではあり得ないことだけに、深く感謝申し上げます。

「テーラヴァーダであれ、チベット仏教であれ、日本仏教であれ、たとえ違いがあっても、その違いをはっきりとさせながら、手を取り合って進めることを願う」。(コメント本文より)

根本仏教からチベット仏教まで、この未熟者、まだまだ概観したに過ぎないかもしれませんが、それぞれ同じ仏教として、根本に控えているお釈迦様の智慧と慈悲の教えに関しては、通底しているものがあると考えております。ただ、その智慧と慈悲についての方便、教義解釈、方法論的な相違はいささかにもあるようには思っております。

慈悲の実践に関しましては、以前に以下においても色々と考察させて頂きましたが、

3/1・NHKクローズアップ現代・「岐路に立つお寺」 ツイッター投稿内容・1〜59
http://sunya.cscblog.jp/content/0001736242.html

【アンチ葬式仏教の危うさ http://bit.ly/muwOcn 】ツイッター・コメント投稿・1-26
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52014077.html

その中で、少しここでは世俗方便と勝義方便の相違につきまして述べさせて頂こうと存じます。

現実・現世利益的な抜苦としての世俗方便に関しては、今や議会・行政・民間(医療法人・社会福祉法人・NPO法人・一般社団・財団法人・NGO団体・ボランティア団体・自治会等)等における分業化・専業化・専門化が進み、それらの方がよりきめ細かなニーズに応えやすいことも鑑みて、仏教・寺院・僧侶が特に取り組まなくても、それらに任せるのが概ね妥当であると考えております。無理してまで世俗方便に関することを仏教・寺院・僧侶が取り戻そうとすることは、もはや時代の流れとしても積極的には必要ではなく、もちろん、余裕があるならば取り組むことも大切ではありますが、第一義としてではないと考えております。

では、仏教・寺院・僧侶が第一義に本来行うべきことは何であるかと僭越にも述べさせて頂きますと、根本苦としてある無明を排撃させて、輪廻の迷い・苦しみについての解決を図らせるための勝義方便としての慈悲の働きであると考えております。

ここは、私なりに世俗方便におけることに取り組ませて頂いていた中でも、様々な考察や葛藤、失敗、反省も踏まえた上での現時点での私の考えとしてございます。

また、現代における仏教批判の中においては、その批判の根本として、現実・現世利益的な面ばかりを重視しすぎて、帰依者・信者・会員のみならず仏教に直接的に関わる者たちでさえも現実・現世利益的なところでの仏教の扱いに終始してしまっているという現状も幾分かあるのではないかと思うことからも、世俗方便に留まってしまっていてはいけないと考えるに至っております。

では、第一義としての勝義方便における慈悲の実践を行うためには、いったいどのような智慧が必要となるのかについて、仏教における学びを試行錯誤を経ながらも進めていく中で、やはり深遠なる空と縁起の理法を深く深く学ぶことが必要であると僭越ながらも現時点において私は考えており、その中でも顕教の範囲内にしか過ぎませんが、特にチベット仏教・哲学、中観思想に重点を置いて取り組んでいる次第でございます。

それでは、勝義方便として、今回の東日本大震災における地震津波被害・放射能被害において、果たしてどのような具体的な現実的対応を取るべきであるのかに関しましては、もちろん不十分な点、誤っている点等も多々あるかとは思いますが、ご叱責、ご批判を畏れずに次のコメント投稿にて私なりの拙いながらの考えをお示しさせて頂こうと存じております。

川口 英俊 合掌九拝

川口さん、誠実なご意見有難うございます。まだ、いろいろな方からご意見をいただけるものと思います。僕自身、いま「宗教と自然」という論文を書きかけていますので、それを書きながら、さらに考えてみたいと思います。いろいろなご意見が十分出たところで、もし可能であれば、半年くらい先に、簡単なシンポジウムを行ってもよいかと思います。やはりネット上のやり取りだけでは、誤解も生じやすく、直接対面して議論することが必要と思います。その頃は、震災1年になりますので、それを踏まえて、宗教(仏教)の立場からの震災観をしっかりと議論することができるのではないかと思います。
絶望を認めるようなことを先のコメントに書きましたが、やはり絶望してはいけないと思います。絶望せずに議論をしましょう。
なお、『中日新聞』(多分、『東京新聞』も)の9月24日朝刊「人生のページ」に、『サンガジャパン』第6号に対する感想(ブログに書いたものを改訂したもの)が出ます。ご覧ください。

末木先生、師です。このあいだの印仏学会でもちらっとお見かけしたと思うのですが、ご挨拶もできず失礼致しました。補足的なことを(北條さんから抜刷が届いたのにあわせて)書きましたので、またご意見をいただければ幸いです。
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20110914/p1
ブログだとどうしても雑になってしまうのですが、そのあたりはご寛恕下さい。

末木 文美士 先生 様

度々にて失礼申し上げます。

この度の先生ご発表のご論考「自然災害説は間違っている」の内容におかれましては、「宗教と政治」に関しても言及なされておられます。

そのことと関連しましての私の考えを少し下記ページにて先にまとめさせて頂きました。かつて、私はほんの数年間ほどにしか過ぎませんが、政治の世界に本格的に入って、政治家を志したこともあるため、その時における政治と宗教に関する印象からも、少し現在の私なりの考えをこの度は述べさせて頂きました。

http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/e4b52ab681d6d767c26f10d5761cce08

多々拙い至らぬ点があるかとは存じますが、ご叱正、ご批正を賜れましたら幸甚でございます。

勝義方便として、今回の東日本大震災における地震津波被害・放射能被害において、果たしてどのような具体的な現実的対応を取るべきであるのかについての私なりの考えに関しましては、改めてまとめさせて頂きまして、秋彼岸後には何とかお示しさせて頂くことができましたらと存じております。

これからも色々とご教授賜れますよう、どうか宜しくお願い申し上げます。

川口 英俊 合掌九拝

師さん、川口さんのご意見、有難うございます。とてもかみ合った議論になってきたようで、うれしく思います。川口さんの指摘された政治と宗教の問題、非常に大きな問題で、いま考え直さなければならないことと思います。師さんから北条さんのご論文を教えていただき、有難うございます。東京を離れてから、すっかり情報にうとくなり、いろいろ知らないことが多いので、教えていただくと非常に助かります。師さんが要約してくださったところでは、北条さんのご意見にはほぼ全面的に賛成です。もし僕の書き方がそれと反対のように受け取られたら、それは書き方が悪かったので、お許しください。
議論がずれてきているように受け取られるかもしれませんが、途中段階では、佐藤哲郎さんとTwitterで確認しながら進めてきていますので、議論がずれたのではなく、深化して、問題点がはっきりしてきているものと考えていますが、もし論点のずれがあれば、ご指摘ください。
できれば、佐藤さんなどから、テーラヴァーダの立場、チベット仏教の立場など、もう少し詳しく教えていただけると助かります。
しばらく仕事が重なり、離れますが、ご意見寄せていただけると有難く存じます。

末木 文美士 先生 様

少しだけ本論から外れてしまうかもしれませんが、先の「宗教と政治」に関しての私の考察につきまして少し補足をさせて頂きたく存じております。

先の「宗教と政治」の考察内容
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/e4b52ab681d6d767c26f10d5761cce08

上記の内容の中におきまして、宗教団体が政治運動に関わる例として、「日本会議」の存在に言及するのを忘れておりました・・

日本会議
http://www.nipponkaigi.org/

日本会議 - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0

日本会議は、日本における宗教団体の政治運動への関わりとしては、恐らく最も大きな(保守系)団体ではないかと存じております。現時点での ウィキペディアにおける主な役員構成を見ますと、宗教団体からは、神道系を中心とし、更に神道系新興宗教が多く見受けられるのが特徴で、伝統日本仏教界からは、比叡山延暦寺・天台宗、四天王寺・和宗が参加されているようであります。

・・

更に補足として、東日本大震災後の宗教界による支援ネットワークの動きの一つに、宗教者災害支援連絡会の動きが顕著としてあります。仏教系・神道系・キリスト教系と超宗教・超宗旨宗派による支援連携協働を呼び掛けられての支援活動の展開を積極的にされています。

宗教者災害支援連絡会・宗教者災害救援ネットワーク
http://www.indranet.jp/syuenren/

今後の展開に関して、政治・行政との支援連携協働をどのように進められていくのかについても注目致しております。

取り急ぎとなりましたが、補足にて失礼申し上げます。

川口 英俊 合掌九拝

東京新聞2011/0/24掲載の末木文美士先生 「問い直される日本の仏教」中 拝読しました。

サンガジャパン6号震災特集の内容を詳しく紹介してくださり、ありがとうございます。

同誌に載った拙稿も、スマナサーラ長老や玄侑宗久師と並んで「震災を純然たる自然現象とみる見方」として批判されてます。

以前、震災と「天罰」発言をめぐって 末木文美士氏との対話(2011年8月27日)
http://togetter.com/li/180088

でも言及しましたが、僕の立場は厳密に言えば「"地震"は純然たる自然現象とみる見方」です。 ”「自然の奥に神仏を考えるか」という問題と、「(地震を)あくまで自然現象と見るか」否かという問題は分けて考えるべき”です。

"震災"という場合は、福島第一原発事故のような人災や関東大震災の際の朝鮮人虐殺のような犯罪行為、地震を苦と受け取る個々人の業など複雑な要素にまでが関わってきますから。

パーリ仏典の註釈レベルでは、生命にかかわる現象の要因は、気象(自然環境の変化)、種子(生殖・遺伝)、心(心理的働き)、業(善悪の結果をもたらす自覚的行為と結果)、法(無常・苦・無我、因縁により変化し続けるという法)、の五つに分別できる(五決定)とされています。

このうち広義の「震災」(おそらく末木先生が仰っている「震災」に近いと思います)には心と業の問題が関わってくることは確かでしょう。いわゆる「心と行いの問題」ですね。仏教では霊的存在も含む自然界の一切生命との関係を重視しますから、そこで「震災」を受けて、荒れてしまった一切生命との関係を結び直す儀式を行う、というのは仏教的な文脈ではしぜんな流れです。

佐藤剛裕さんがサンガジャパン6号で紹介したように、ダライ・ラマ師が震災犠牲者の法要で「大地の主と四大の女神たちへの供養文」を読んだというのも、仏教的にしぜんなプロセスでしょう。

(上述のツイッターまとめでは、”地震に起因する自然災害によって崩れた人間と自然との関係を修復するために、神々に呼びかけて菩提心の想起(テーラワーダ的には慈心・悲心の想起)を促すことはありうる”と書きました。)

それを「震災を純然たる自然現象とみる見方」と対立させるのは、ちょっと見当違いでは中と思います。

【訂正】

×それを「震災を純然たる自然現象とみる見方」と対立させるのは、ちょっと見当違いでは中と思います。

○それを「震災を純然たる自然現象とみる見方」と対立させるのは、ちょっと見当違いではないかと思います。

追伸:

補足すれば、「仏典による限り、地震は自然現象として起ることしかあり得ない」のです。それが"震災"として様々な悲劇を生じさせることには、確かに(生命の)心と業のはたらきが関わっています。

それをごっちゃにして、地震に起因する震災にわざわざ天意を読み込んで(その実は、自分の勝手な情緒を投影して)、見当違いな「反省」をし、「自然との対話」云々を言い出すことは、仏教者の態度としてはまったく的外れだということです。

それは、末木先生の過ちとして、指摘しておきたいところです。

http://bunmao.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-25ae.html#comment-65939631

最後の行、

「それを「震災を純然たる自然現象とみる見方」と対立させるのは、ちょっと見当違いではないかと思います。」

は推敲不足でした。修正して、↓

「その通仏教的なダライラマ師の振る舞いを「震災を純然たる自然現象とみる見方」(テーラワーダ仏教もそこに入れられている)と対立させて、末木先生の所論に引き寄せるのは、ちょっと見当違いではないかと思います。」

とした方が分かりやすかったと思います。そのように読んでいただければ幸いです。

震災は存在災害です。
つまり資本主義災害です。
今後、人間が生きていくためには、資本主義は死ななければならないということです。

自然災害も人類の今後の英知により克服は無理でも共存できるのではないか
これに対し原発は現在の科学では制御不能でひとたび事故が起これば地球より重い人命が失われる祈祷でも真言でも無理

末木文美士先生
すっかりご無沙汰、恐縮です。今野です。末木さんらしい、本質に切り込んだ、問題提起ですね。事の本質を深く考えさせられます。とくに日常生活と一体で、子供にとっても身近な存在だったお寺(宗教)のありかたについて、いろいろ考えさせられることばかりです。

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