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2011年5月 5日 (木)

天罰問題元原稿

(もととなる記事がわからないというご意見がありましたので、掲載します)

 大震災による犠牲者の方々に慎んで哀悼の意を表すとともに、一日も早い原発事故の終息と被災地の復興を心から願っています。

 石原慎太郎東京都知事が震災を「天罰」と発言したことで批判を浴び、取り消した。確かに氏の言い方は誤解を招きやすく、被災者を傷つけるところがあった。しかし、天罰という見方は、必ずしも不適当と言えない。もちろん被災地の方が悪いのではない。今日の日本全体、あるいは世界全体が、どこか間違っていたのではないか。経済だけを優先し、科学技術の発達を謳歌してきた人間の傲慢が、環境の破壊や社会のゆがみを招き、そのひずみが強者にではなく、弱者にいっそう厳しい形で襲い掛かってきたと見るべきではないか。

 日蓮の『立正安国論』では、国が誤れば、神仏に見捨てられ、大きな災害を招くと言っている。その預言を馬鹿げたことと見るべきではない。大災害は人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければいけない。だから、それは被災地だけの問題ではなく、日本全体が責任を持たなければならないことだ。

 大げさかもしれないが、明治以来の近代国家の根本方針の転換が必要である。富国強兵で国力を充実させ、世界の大国にのし上がることを第一目標にしてきた国のあり方が問われている。それこそ、一番でなくてもいいではないですか。ナンバーワンではなく、オンリーワンの平和な文化立国を目指すべきである。

 そのとき、長い歴史を持つ仏教の果たす役割はきわめて大きい。そもそも今回の大震災は貞観以来のことと言われる。これまでのように、近代の範囲だけでものを見るような狭い視野では、これからの日本を作っていくことはできない。千年単位の大きな視野が不可欠である。原発の問題にしても、誰もが不安を感じながら、とりあえず必要だからと、容認してきた。これからは専門家だけに任せず、宗教家や哲学者が大きな見通しをもって発言していかなければいけない。

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コメント

 この度の東日本大震災にて被災されました皆様方には心からお見舞い申し上げます。また、お亡くなりになられました皆様方のご冥福を心からお祈り申し上げます。謹んで鎮魂御供養申し上げます。

東日本大震災・天罰論につきまして、あくまでも若輩未熟者の一私見でございます。一目お読み頂けました皆様方におかれましては、何かのご参考となりましたら幸いでございます。

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズ内より(12-18)・・

12大震災天罰論がありますが、地震に対する功罪判断、善悪判断は、人間の都合による恣意的思惟分別によるところが大きく、地震そのものは大自然の営みの一つであり、功罪・善悪も関係なく、ただ空・縁起によるところの現象に過ぎないものであります。

13 空・縁起によるものに過ぎない事象・現象について、天罰か、天佑か、そのどちらでもないか、という判断も人間の恣意的思惟分別によるところが大きく、あまりとらわれてしまうといけないものであります。では、なぜ天罰論が出てくるのか?

14 天罰論は、今のこの国の社会・世情や体制・システムなど色々なあり方に対しての不満があり、自分の思い通りの理想の世の中にならないことへの不満から、「それ見たことか、お天道様が罰を下したのだ」というような主張ではないかと思われます。

15 何事も思い通りにならない、求めても求めても得ることができないという不満によって、様々な煩悩が生じ、悩み迷い苦しむことが、八苦の一つ、「求不得苦」であります。大震災天罰論もこの苦しみから生じているものではないかと考えられます。

16 また、天罰論は、神仏などを実体視、絶対視してしまっている過ちからも生じてしまっているように存じます。もちろん、神仏も空・縁起においてでのありようであり、当然に「有」でもなく、「無」でもないものであります。

17 また、大震災天罰論には、この度の厄災をとにかく誰かの責めにして解決満足、決着させたいということもあるのでしょう。自然の責めや神仏の責めにはできない、であれば人間の責めにしよう、ということでの罰が下ったのだという意もあるのでしょう。

18 とにかく、今回の大震災を誰かの責めにしたいのであれば、空・縁起なることを認めれずに色々と誤って実体視して、とらわれを起こし、煩悩を抱え、迷い苦しみ不満に陥ってしまっている己自身を責めることの方が最も重要なことでありますでしょう。・・続く予定。

【大震災・空と縁起と】1-11
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52002925.html

川口 英俊 合掌九拝
http://www.hide.vc/

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズにて、天罰論に関しまして追記させて頂きました。浅学非才、若輩未熟者の一私見でございますが、こちらにもコメントさせて頂きますので、ご容赦の程、宜しくお願い申し上げます。

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズ内より(19-23)・・

19 少し大震災天罰論につきましてコメントをさせて頂きましたが、本来は、「災」や「厄」という文字は使うべきではないのでしょう。「災」や「厄」を使うと、人間の恣意的思惟分別によって固定された価値判断に陥ってしまう恐れがあるからです。

20 16において『神仏も空・縁起においてでのありようであり、当然に「有」でもなく、「無」でもないものであります。』と述べさせて頂きましたが、決して「神仏は無いと言っているわけではない」ので、誤解のないように宜しくお願い申し上げます。

21 また、大地震天罰論では、過去のありようを美化しようとするバイアスもかかってしまっているのではないかと推察致します。大自然・神仏への畏敬の念、崇拝の念が昔より少ない、昔より人間は傲慢になってしまった、といった主張であります。

22 昔も今も人間の愚かさ、無明を抱えているありようはそうは変わっておらず、そのような中で、過去と比べて大自然・神仏への畏敬・崇拝の念の大小、人間の傲慢さの大小を述べてもあまり意味のないことであると考えております。

23 つまり、過去は良かったのに論などで、猛省を促すのではなく、もっと私たちは根本的な無知、無明を抱えているがゆえにいつまでも迷い苦しんでいるのだ、という視点からも、現実的にとらえていかなければならないことがあると考えております。・・更に続く予定。

・・

 この度の東日本大震災にて被災されました皆様方には心からお見舞い申し上げます。また、お亡くなりになられました皆様方のご冥福を心からお祈り申し上げます。謹んで鎮魂御供養申し上げます。

東日本大震災・天罰論につきまして、あくまでも若輩未熟者の一私見でございます。一目お読み頂けました皆様方におかれましては、何かのご参考となりましたら幸いでございます。

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズ内より(12-18)・・

12大震災天罰論がありますが、地震に対する功罪判断、善悪判断は、人間の都合による恣意的思惟分別によるところが大きく、地震そのものは大自然の営みの一つであり、功罪・善悪も関係なく、ただ空・縁起によるところの現象に過ぎないものであります。

13 空・縁起によるものに過ぎない事象・現象について、天罰か、天佑か、そのどちらでもないか、という判断も人間の恣意的思惟分別によるところが大きく、あまりとらわれてしまうといけないものであります。では、なぜ天罰論が出てくるのか?

14 天罰論は、今のこの国の社会・世情や体制・システムなど色々なあり方に対しての不満があり、自分の思い通りの理想の世の中にならないことへの不満から、「それ見たことか、お天道様が罰を下したのだ」というような主張ではないかと思われます。

15 何事も思い通りにならない、求めても求めても得ることができないという不満によって、様々な煩悩が生じ、悩み迷い苦しむことが、八苦の一つ、「求不得苦」であります。大震災天罰論もこの苦しみから生じているものではないかと考えられます。

16 また、天罰論は、神仏などを実体視、絶対視してしまっている過ちからも生じてしまっているように存じます。もちろん、神仏も空・縁起においてでのありようであり、当然に「有」でもなく、「無」でもないものであります。

17 また、大震災天罰論には、この度の厄災をとにかく誰かの責めにして解決満足、決着させたいということもあるのでしょう。自然の責めや神仏の責めにはできない、であれば人間の責めにしよう、ということでの罰が下ったのだという意もあるのでしょう。

18 とにかく、今回の大震災を誰かの責めにしたいのであれば、空・縁起なることを認めれずに色々と誤って実体視して、とらわれを起こし、煩悩を抱え、迷い苦しみ不満に陥ってしまっている己自身を責めることの方が最も重要なことでありますでしょう。・・続く予定。

【大震災・空と縁起と】1-11
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52002925.html

川口 英俊 合掌九拝
http://www.hide.vc/

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズにて、天罰論に関しましての私見関連考察を追記させて頂きました。

浅学非才、若輩未熟者の一私見でございますが、こちらにもコメントさせて頂きますので、ご容赦の程、宜しくお願い申し上げます。

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズ内より(25-34)・・

25 大地震天罰論に関しましての私見(12-23)を述べさせて頂いて参りましたが、その内容において、時間論の扱いや、非有・非無に関しての中観帰謬論証派の立場からの補足などについて、また後にも考察して参りたいと存じます。

26 次のダライ・ラマ法王猊下のお言葉については、二諦に関しての重要な視座を有している。・・先日の米・USC講演から・・「人は祈るだけでは幸福になれない。この幸せな人生というのは宗教的な概念ではない。幸福は世俗的な概念だ。..(続) 

27 ..だから、私の〔この話の〕目的は世俗的なものである」・「私は仏教徒だ。私は仏法を尊んでいる。しかし、私はいつも世俗について語っている。」(訳参照・石濱裕美子氏)・・法王猊下は、常に二諦を明確に意識して語られています。

28 もちろん、二諦とは、世俗諦と勝義諦のことであります。仏教者が仏法を扱うときには、語り手も聞き手も常に二諦を意識しておく必要があります。二諦の理解レベルの差異により、一つのコトバでも大きく解釈に相違が生じることがあるからであります。

29 この度の大震災に関して、例えばダライ・ラマ法王猊下のようなレベルの高いラマが語られたこと、あるいはこれからも語られることは、その対象が世俗一般人であれば、やはり世俗的なレベルに合わせて語られているということになります。

30 ですから、4/29に法王猊下が語られたことも、まずは世俗諦的なこととしての理解が必要となります。それでは、猊下は、勝義諦的なことを語られることはあるのか・・厳密には語られることは無いと言えます。つまり、「勝義無」であります。

31 確かに厳密には、勝義無でありますが、勝義諦を指向するところにおける世俗(言説)有なる言語表現までは否定されることではないと考えます。しかし、その場合にも、二諦の了解レベルの差異による理解の差異は生じてしまうでしょう。

32 世俗(言説)有の扱いに関しては、ツォンカパ論師の捉えている「正理の理解」も必要となってくるところでありますでしょう。この浅学非才の未熟者、まだまだでございまして、大変に申し訳なく存じております。

33 何とか、法王猊下の勝義諦を指向なされるところの世俗(言説)有の展開に関して、二諦を意識しつつ、少しでも理解が進みますように、これからも精進努力して行かなければならないと存じております。

34 ただ、もちろん、勝義無とはいえども、単なる無分別知、戯論寂滅が、果たして最高真理であると言えるのか、最高真理として扱うべきであるのかどうかについては、まだまだ十分な考察が必要であると考えております。・・続く予定。

東日本大震災・天罰論についての私見
【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズ内より(12-25)
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52004702.html

【大震災・空と縁起と】1-11
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52002925.html

川口 英俊 合掌九拝
http://www.hide.vc/

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズにて、天罰論に関しましての私見関連考察を追記させて頂きました。

浅学非才、若輩未熟者の一私見でございますが、こちらにもコメントさせて頂きますので、ご容赦の程、宜しくお願い申し上げます。

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズ内より(36-40)・・

36 「正理の考察」に関して、〔ダライ・ラマの仏教哲学講義・p237〕を参考。1.対象は日常的な世界において認められている(世間極成)。2.日常世界における(世俗的な)正しい認識と矛盾しない。3.究極的なものを考察する正しい認識と矛盾しない。

37 中観帰謬論証派では、存在は、ただ概念的に認識思惟分別によって仮説・仮設・仮名されただけに過ぎないものとされ、それはもちろん虚無でなく、存在における効果的作用能力も認められており、縁起するものとして成立していると説明されます。

38 また、効果的作用能力の無い存在は、存在としては認められません。概念的な認識思惟分別において仮説・仮設・仮名されたものでも、36で挙げさせて頂きました「正理の考察」を経た上で認められるものでなくてはなりません。

39 では、様々な如来様・菩薩様・明王様など御仏の存在は、果たして「正理の考察」に耐えうるものであるのかどうか、効果的作用能力があるのかどうか・・ここの見極めが、仏教に携わる全ての者たちにとっての一大事であると考えております。

40 もしも、各御仏方、また、各神々の存在が、「正理の考察」に耐えれず、「効果的作用能力」が無いとなれば、ただの観念的・空想的な虚構の存在となってしまいます。ここの見極めが、浅学非才のこの未熟者、非常に難しい課題としてあります。

東日本大震災・天罰論についての私見
【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズ内より(12-34)
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52005424.html

【大震災・空と縁起と】1-11
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52002925.html

川口 英俊 合掌九拝
http://www.hide.vc/

川口さま、
ご考察へのコメントを、次の「ご批判に答える」のコメント欄に記させていただきました。よろしかったらご覧くださいませ。

吉村 均 先生

コメントご確認させて頂きましたので、こちらにもコメントさせて頂きます。ありがとうございました。

また改めまして浅学非才の未熟者の拙い考察私見を本ブログのコメント欄に載せさせて頂こうと存じておりますので、誠にご叱咤、ご批正を賜れますよう、何卒にも宜しくお願い申し上げます。

・・

ご丁寧なる御教示を賜りながら、本日まで気づかないままにて大変に失礼致しました。

この度は、重大なる視座を賜りまして、誠に恐縮致しております。

浅学非才の未熟者、恥じ入ることが多くございます。

この度の先生のご叱咤のお言葉を常に意識しつつ、大地震天罰論に関しまして、慎重に考察して参れましたらと存じております。

また、私の考察に関しまして目に余ることもあるかと存じますが、慈悲の御心にてどうか、この未熟者をお導き下さいますように何卒、宜しくお願い申し上げます。

取り急ぎにお返事申し上げさせて頂きまして、御礼のコメントとさせて頂きます。

ありがとうございました。

川口 英俊 合掌九拝

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