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2011年5月15日 (日)

自然はただの自然か?(2)

 自然の背後に何ものかがいるのかどうか。これはまさしく前章までの議論から明らかであろう。いるかどうか、存在を問うことは意味がない。存在より関係が先立つ。誰と、どのように関係を結ぶか、という問題である。

 例えば、目の前に人が立っているとしよう。目に見えるのは衣服を着た人の形の物体だけである。それでも僕は、その物体を人として認識し、そのように関係を持つ。客観的にその物体に心があるかどうかは、証明を要する問題ではない。昏睡して、反応を示さない病人に対してでも、同じように対するであろう。あるいは、ペットに対しても、人に対するのと同じように呼びかけ、抱擁するだろう。それならば、花に対してはどうだろうか。花に対しても呼びかけ、いとおしむことがあるに違いない。

 内山節によると、一九六五年までは、日本の各地で人がキツネにだまされた話が伝えられている。それが、一九六五年を契機に、キツネが人をだますという話が急速に消えてしまったという(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』、講談社現代新書、二〇〇七)。即ち、一九六五年まではキツネは人をだます存在として認識されていた。それが、それ以後には、キツネは単なる動物として認識されるようになったのである。キツネに対する関係のとり方が違うのである。その場合、内山が言うように、問題は、実際にキツネがだますかどうか、ということではない。キツネはだます存在として人々の生活の中に生きていた。人々はだますキツネやタヌキやムジナと一緒に生活していた。ところが、そのような村に外国人が入ってきたことがあった。そうすると、村人はキツネにだまされても、外国人がだまされることはなかったという。「おそらくその理由は、その人を包み込んでいる世界が違うから、なのであろう」(同、一一五頁)と内山は指摘する。

 今日、エコロジーの問題が盛んに論じられ、「環境倫理学」が主張される。その中で、人間と同様に、自然にも権利があるという主張が強くなっている。人間と同じように、動物にも、植物にも、あるいは岩にも生存権があるというのである。人間に害を及ぼす細菌にも同じ権利を認めるべきだ、という主張にもなる(ドデリック・F・ナッシュ『自然の権利』、松野弘訳、ミネルヴァ書房、二〇一一)。だが、僕たちから見れば、それは人間主義的な権利の思想を人間以外のものにまで波及させ、同一化させるという、人間主義の拡張のようにしか見えない。だから、クジラの権利を主張して、人間を害してもよいという、奇妙な論理にもなるのである。このような主張では、具体的な関係ということは考えられていない。クジラとどんな関係を結ぶかということは、まったく考慮されていない。権利は確固として先天的にそれ自体で「ある」ものとされるのである。

 野本寛一によれば、高山市の長老の話として、こう伝えている。「自分の屋敷でも、家を建て替える時には、解体後直ちに新しい家の基礎工事にかかってはいけない。一旦、屋敷地を自然に帰さなければならない。そのためには、建物を壊し、平した地に植物の種を蒔くとよい。……芽が出れば、屋敷地は自然に帰ったことになる。その後、初めて基礎工事にかかってよいことになるのだと伝えられている――」(『地霊の復権』、岩波書店、二〇一一、一頁)。野本は、「こうした伝承の中には、この国の人びとが地霊・精霊に対して細やかな心づかいをしてきたことが示されている」(同)と論じている。ここには、「自然の権利」とは全く異なる「自然との関係」という視点を見て取ることができる。

 その地霊に対する心づかいが、高度成長期以来、消えてしまった。「近代化、開発至上主義の中で、地霊の凝結した場、地霊安息の場、小さな民俗神の場は踏みにじられ、消滅を重ねている。地霊・精霊の呻きが聞こえる」(同、二頁)と、警告している。

 「地霊・精霊の呻き」など、聞こえるはずがない、それは譬喩以上の意味を持たない、という人もいるであろう。それはちょうど、キツネにだまされるかどうか、ということと同じである。内山が言うように、「キツネにだまされる能力」もまた、重要な能力なのであり、その能力がないならば、つまりそのような関係が結べなければ、キツネにだまされることはできないのである。

 近代の合理主義と経済優先の開発は、キツネたちのだます力を奪い、地霊や精霊たちに理不尽な暴力を振い続けてきた。もはや彼らの声はほとんど聞きがたくなっている。僕もまた、彼らの声を十分に聞くことができるとは言えない。それでも、その痛みのいく分かは分かる。

 二〇一一年の東日本大震災のときに、僕は、「人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動」があったのではないかと論じたところ、多くの方の批判を招くことになった。その論点は、結局、このように自然を超えた何かと関係を結ぶことを認めるかどうか、ということに帰着する。多くの論者は、自然の災害はあくまで自然のことであり、その背後の力を認めることを拒否した。それに対して、僕は、そのような力を認めるべきだと論じた。自然の底で、何ものかが呻くこともあれば、怒って暴れることもありうるのではないか。そのような考え方を否定すべきではない。議論は平行線であるが、これはきわめて重要な問題である。

 東北地方は、古くから公式的な仏教の教理に解消できないような、さまざまな独自の神仏への信仰を育み、また、死者たちと共存してきた。それは今日でもかなり生きている。そのように、古くからの信仰がかなり強く生きている土地は今でも他にもある。京都もそうであるし、大師信仰の根強い四国もそうである。それに対して、そのような古くからの信仰がもっとも消えてしまったのが東京である。大都会の中では、死者たちや地霊たちの声は極めて聞き取りにくくなっている。その空白の状況の中で、「霊性」を説く新新宗教などが流行したりする。オウム真理教の地盤もそのようなところにあったのではないだろうか。

 東北の復興に当って、大都会の合理主義の論理ですべてを片付けてはいけない。それが自然の災害ということで説明がついたとしても、その背後の力を認めようという発想を、頭から否定してはいけないのではないか。すでに述べたように、科学がすべてではない。科学を制御する道は、もしかしたら、一見ナンセンスに見える「冥」の世界の力を認め、その世界のものたちと関係を持つことによってなされるのではないだろうか。それは、南方熊楠が開いた道を継承していくところに成り立つように思われる。

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コメント

【大震災・空と縁起と】ツイッター投稿シリーズにて、天罰論に関しましての私見関連考察を追記させて頂きました。

これまでの天罰論に関しましての私見関連考察 【大震災・空と縁起と】(12-47)
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52007858.html

浅学非才、若輩未熟者の一私見でございますが、(48-72)に関しまして、以下、こちらにもコメントを追記させて頂きますので、ご容赦の程、宜しくお願い申し上げます。

48 神・仏の存在に関しては、もちろん、無自性であり、実体として存在しているわけではない。存在するとすれば、空・縁起なるものとして、また、世俗(言説)有として認められるものであり、なおかつ効果的作用能力の有無がポイントとなる。

49 では、例えば如来・菩薩・明王など仏の存在の場合、その効果的作用能力としてどのようなものが考えられるか? 端的に述べると、真理を知らずに輪廻に縛られている原因である私たちの煩悩、無明を排撃し、到涅槃させるということが考えられます。

50 つまり、如来・菩薩・明王の存在は、各それぞれの存在が伝導しようとする教え(方便)が、覚者としての智慧と慈悲を土台とし、縁起と空の正しい理解を及ぼさせて、煩悩・無明を排撃していくための菩提心を起こさせるというものであります。

51 覚者に顕現する仏の存在は、否定されるものではなく、空と縁起による存在であり、かつ、効果的作用能力が有効に働くものであれば、世俗(言説)有として問題なく成立するものと考えます。もちろん、勝義無であり、決して実体的ではありません。

52 では、大地震天罰論について考えますと、罰を与える者を神仏と仮定したとして、その存在が、空と縁起による存在であり、かつ効果的作用能力が有効に働くものであれば、世俗(言説)有として一応はその存在を認めることができると考えます。

53 しかしながら、大地震と神仏との因果関係を解明することは容易ではなく、その効果的作用能力を推し量ることも難しいものであり、天罰論における罰を与える者としての神仏の存在は、正直、認めることは難しいように思えます。

54 49で述べた効果的作用能力に関して、今回の大地震が天罰の様相を呈していると仮定した上で、果たして神仏が、このような大地震・原発事故という方便を用いて、私たちの煩悩、無明を排撃させて、到涅槃させるということが可能であろうか?

55 また、大地震・原発事故が天罰であると仮定して、その大地震・原発事故が、神仏の智慧と慈悲を土台とし、私たちに菩提心を起こさせるための方便であると果たして言えるであろうか?倫理的にも認められうるものであろうか?

56 もしも、真に智慧と慈悲による方便を用いるのであれば、このような無慈悲で残酷、深刻、凄惨な事態を必要とするのであろうか?また、犠牲者・被災者とそうでない者との境目はどのようにお決めになられたのであろうか?罪業の差?煩悩・無明の差?

57 輪廻の大海に深く沈み、迷い苦しみの中を彷徨っている私たちにそのような差はほとんど無い。天罰と言うのであれば、その罰はあまねく等しくに下されてしかるべきであり、また、そのような方便で到涅槃の導きが果たされるとも到底思えない。

58 また、この度の事態において、輪廻の大海に深く沈む私たちのこの世界における一切皆苦・一切行苦の現実を直視し、無常・無我・空・縁起を深く思惟して、菩提心を起こす者が現れるということは、天罰に拘わらずに十分にあり得ることであります。

59 もしも、この度の事態を受けて、そのように菩提心を起こして、智慧と慈悲の実践にて多くの衆生を涅槃へと導く尊師・菩薩が現れるのであれば、天罰ではなく、むしろ天佑と言えなくもないのではないだろうか・・ここは実に難しいところであります。

60 とにかく、天罰か、天佑か、いずれでもないかは、それぞれの恣意的思惟分別によって異なるものであり、いずれにしてもあまりとらわれてしまってもいけないものであります。それよりも現実をどのように対処すべきかが重要なこととなります。

61 天罰論に関しての、神仏の存在の関わりの議論や、または宿命論・決定論、神の存在証明の議論、また、天罰か、天佑か、そのいずれもか、そのいずれでもないかの議論も、仏教ではやはり「無記・戯論」として退けられるものであると考えます。

62 大地震は、単なる自然現象の作用であり、もちろん、空・縁起なる事象。原発事故は、強いて言えば煩悩、無明を抱えている愚かなる人間による所業の関わりが大小なり幾分かあるかもしれませんが、もちろん、空・縁起なる事象におけること。

63 空・縁起なることにおける存在、現象、事象においては、原因や結果、または条件も、当然に実体的に成立するものではありません。もちろん、あくまでも排除されるのは、実体的、つまり勝義的な存在としての原因・結果・条件であります。

64 それはつまり、あくまでも否定、排除されるのは、実体的・勝義的な存在であり、世俗(言説)諦として成立しうる相互依存関係における原因・結果・条件までもが否定、排除されるわけではありません。

65 かといって、世俗(言説)諦として、その存在が何でもかんでも自由に認められるわけでもありません。世俗(言説)諦といえども、認められるべきものと認められないものとを明確に分けて考える必要があります。36の内容がその基準となります。

66 天罰論に関しての私見の一つの結論としては、世俗(言説)諦としても、61で述べたように、「無記・戯論」を踏まえた上で、36の内容の基準に適合する存在だけを、あくまでも原因・結果・条件として認めるべきであると考えております。

67 そこでは、神仏の関わりの存在を認めることはやはり難しいでしょう。それよりもダライ・ラマ法王猊下がおっしゃられましたように、既に起こってしまったことの、その原因・結果・条件をあれこれ遡って考えても、もう無意味で無駄なことであります。

68 むしろ、現実を直視した上で、今後、どのようにしていくべきであるのかをしっかりと思惟、実践していくことが肝要なことであります。日本仏教界でも、支援・復興のための智慧・慈悲を実践している地涌の菩薩たちが無数に現出しております。

69 この度の大震災においては、智慧・慈悲を実践している地涌の菩薩たちは確かに存在しています。その菩薩たちの中から、更に輪廻の大海に深く沈む私たちの煩悩、無明を排撃させうる智慧と慈悲を兼ね備えた尊師・菩薩も現出することでしょう。

70 私たちも支援・復興に携わっている無数の存在と共に、それぞれの立場においても、できうることで応援、支援、協力に関わっていきながら、一切皆苦・一切行苦の現実直視、無常・無我・空・縁起を深く思惟していくことが求められて参ります。

71 そして、やがて、多くの者たちが菩提心を起こし、確かな智慧と慈悲の実践により、真なる到涅槃へと衆生を導き賜うことを願いつつ、この度の犠牲者の皆様の御供養鎮魂慰霊、被災者皆様のいち早い苦の軽減を切に祈念申し上げる次第でございます。

72 これまでこの浅学非才の未熟者なりに、この度の大震災に関しての「空と縁起と」からにおける考え、天罰論に関しての私見を述べさせて頂きました。お読み賜りまして篤く感謝、御礼を申し上げます。ご叱正、ご批正を多々覚悟致しております。

【大震災・空と縁起と】(1-11)
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52002925.html

川口 英俊 合掌九拝
http://www.hide.vc/


ちょっとした、ドキドキがほしいな
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