2011年11月30日 (水)

ネット議論のあり方

 先の文章(「ご意見を有難うございます」)に新たなコメントをいただき、佐藤哲郎さんの書評のことをお知らせいただき、有難うございます。情報自体は大変有難く、僕も知りませんでしたが、ただ書き方は少し気になります。

 僕はこれまでもいろいろな方と論争をしてきましたが、いちばん気を付けてきたことは、個人攻撃にならないこと、卑劣な態度を取らないことです。論争はあくまで気心が知れた、尊敬できる友人を相手にしてはじめて有意義なものにできるのであり、敵対関係やお互いに罵倒するような関係では、本当に実りのある論争にはなりません。

 僕はいつもその態度を貫いてきましたし、論争相手にもそのように求めてきました。ですから、論争をしてそれで人間関係が壊れたということはありません。はじめはよく知らず、警戒心を持ったり、敵対的な心情を持っていても、論争することによって、かえって親しくなり、お互いの立場が分かり、親しくなって来ました。論争する以上、そのような方向を求めるべきだと、ずっと信念を持ってやってきました。

 僕は、どうせ本名が分かっているのに、ネット上ではあえて匿名にしています。それに何の意味があるかと、しばしば尋ねられますが、あくまで議論は肩書とか経歴とかなしに、意見そのものを闘わせるべきだと思うからです。印刷されたものですと、公共の場に出るので、言葉にあるセーブが効きますので、きちんと名乗りを上げなければいけませんが、ネット上では、対象があやふやな場合が多く、個人攻撃や、人格攻撃にまでなりかねず、本当の議論から問題がずれてしまいます。それを避けるために、できるだけ個人性は外して、内容本位で議論するほうがよいのではないかと思うのです。ただ、そのあたりは、若い方とは感覚のずれがあるかもしれません。

 そのようなわけで、これまでも意見や態度に対しては、かなり厳しく批判しても、個人攻撃や、ある特定の団体に対して悪口を言ったり、陰口を聞くような態度は、自分であれ、他人であれ、決して認めず、戒めてきました。そのことははっきりさせておきます。今後はそのようなコメントは削除させていただきます。

 ちなみに、今回お名前が出ましたので、あえて書いておきますが、佐藤哲郎氏は僕にとって尊敬すべきよき友人で、そのご著書を高く評価していますし、スマナサーラ長老たちの活動にも注目しています。ですから、『サンガジャパン』にも執筆しています。

 僕は伝統重視派ですが、それに対して、従来からも批判仏教のように、伝統的な日本仏教を批判する立場もあります。意見は違っても、それはそれでありうる立場です。震災自然現象説も、一概に否定するわけではなく、そこからどのような積極的な帰結が出てくるか、これから展開してくださることを期待しています。ぜひもっと議論を深めたいと願っています。

 ネットの中に閉じた党派性を作って、自分たちだけ囲い込んで他人を排除して自己満足にふけるのではなく、本当に開かれた議論の場を作り、反対意見も含めて、お互いの理解を深めるような論争をしたいと切に願いますし、このブログを訪れた方には、そのような基本方針をわかってご協力いただければ有難く存じます。

2011年10月23日 (日)

メモと近況

 これ以上ネット上には書かず、今後、印刷物の場で意見をまとめていくということで考えていますが、堀江さんから大学の授業でも使っていただいたとのことで、貴重なご意見をいただき、有難うございます。なかなか僕のような考えは理解されにくいので、時間をかけて整理していかなければなりませんが、いくつか思いついたことと、今後の予定など記しておきます。

1、石原発言問題とごっちゃになったため、政治的なアジテーションと誤解されたところがある。あくまで、それとは切り離して、哲学・宗教的な問題として考えるべきである。

2、その場合、自然科学者と同じように、「地震」が自然現象としてのプレート移動によるものかどうか、ということを議論しても仕方ない。「震災」の捉え方を問題にしているのであって、自然現象としての「地震」の原因を云々しているのではない。

3、問題は、自然という他者とどのように関係するか、ということである。他者とは、これまでも拙著にしばしば論じてきているように、合理的なコミュニケーションが不可能でありながら、関わりを持たざるを得ない何ものか、である。

4、そのような「他者としての自然」と関わるには、一方で、自らのあり方を反省する必要があり、他方では、「他者」に対して、どのように処遇するかが問題になる。

5、そのことは、「自然現象だから仕方ない」というような無責任な態度でなく、今後も起りうる災害に対してどのように対するかという、将来へ向かっての問題にも絡む。

6、このように考えれば、「震災は天災、原発は人災」というような二分化は成り立たない。

7、思想史的に見ると、仏教理論としては、「業」をどう考えるか、ということがひとつの問題となる。もうひとつは、日蓮の善神捨離説である。他に、中国の天人相関説があり、「天罰」というのは、それを受けて室町期に天道説などと関連して形成されたようである。

8、それらを、単に過去の説として見捨てるのではなく、近代的な合理論が通用しなくなった中で、もう一度その意味を考え直す必要がある。

9、「震災」に対して、「無常」ということが一部の人たちによって言われたが、原発問題をみても、あるいは、なかなか被災地の瓦礫も片付かないことを見ても、「無常」で片付けるべきではない。むしろ、「無常」が通用しなくなった状況にどう向うか、という問題である。

10、議論の方法として、相手の意見も聞かずに、一方的にバッシングして、議論を封ずるような方法は、絶対に認めず、それに対しては断固闘う。

 以上、これだけでは納得していただけないと思いますが、このような方向で理解していただけるように書いたり、発言していきたいと思います。

 今後の予定として、現在、日本の自然観の歴史の論文を執筆中で、来年はじめには、日本の災害観の歴史について書かなければなりません。それらで、歴史的なことを整理してみます。来年予定している拙著の中でも、とりあえず論争を簡単に振り返るようなことは書きたいと思っています。日蓮宗でもようやく震災論を本気になって議論したいということで、そのような機会に発言することも出てきそうです。できれば、今後、反対論者にも加わっていただいてシンポジウムができるようにしたいと思いますが、慌てずに、もう少しそのような気運が出てくるのを待ちたいと思います。もし時間が調整できれば、授業に参加して、学生さんと議論してもかまいませんが、時間の調整が難しいかもしれません。

2011年9月25日 (日)

ご意見有難うございます

 僕の所論に対して、いろいろご意見をいただいて、有難うございます。

 川口さんには、貴重な情報を有難うございます。

 佐藤さんには、ご意見有難うございます。上座部仏教やチベット仏教に関しては、まったく知らないので、見当違いも多いかと思います。お許しください。ただ、業や心の問題が関係するということは、よく理解できますし、東アジアに伝わった『倶舎論』などの理論とも合致するところです。「業」の問題は、僕もまだ、どう理解したらよいのか、はっきりできないところがあり、正直を言っていささか避けています。さらにご教示ください。

 僕自身は、密教を中心とした日本仏教の考え方をどのように生かせるか、ということを考えていますが、既成の仏教教理そのものではなく、それを僕なりに組み替えたいと考えています。その前提から出発して書いていくと、非常に複雑になってしまいますので、とりあえずは『仏教vs.倫理』第20章をご覧いただければ、基本はご理解いただけると思います。「自然」を「他者」として捉えるということは、決して親密なだけのものとしてだけ捉えるということではなく、逆に理解不能ということが原点ですので、師さんのご批判には答えられると思います。もっとも、僕の他者論はやや特殊ですので、それ自体への批判はあろうかと思います。

 ただし、『東京新聞』(中日新聞)にも書きましたように、いろいろな見方があってよいと思います。立場の違いはあっても、一方で違いをはっきりさせると同時に、協力できることはしていければと思います。当初、石原発言是か非かという踏み絵的な二者択一で問題が出されたために議論の論点がずれて混乱しましたが、少なくともそれを超えて、生産的な議論を通じて、理解し合える基盤は作られたのではないかと信じます。

 自然現象説を槍玉に挙げるような書き方になったことは、これもお許しください。もちろん、佐藤さんのようなご理解であれば、まったく賛成であり、十分に協力していけると思います。しかし、例えば、玄侑さんのような方でも、地震と津波は自然現象で、原発はそうではないというようなことを言っておられるし、『在家仏教』9月号の巻頭言で、高崎直道氏も同じようなことを言っています。そうした言い方はかなり通俗的に広く受け入れられているのではないかと思います。それもひとつの立場かとは思いますが、原発と、地震・津波の被害を完全に切り分ける二元論になったら危険かと思います。原発も、ある意味では、地震・津波の被災地と同様に現代社会の縮図であり、連続的に捉えるべきではないかと思います。

 それと、何より重要なことは、震災は終った問題ではなく、これからの被災者の生活、被災地の復興、原発対策、そして、それと同時に、これから起るであろう首都圏の震災に対して、どのように対応していけばよいのか、という未来へ向っての問題も含みます。と言うよりも、それこそ最大の問題です。本当に必要なのは、それをどう考えていけばよいかという理論だということには、賛成していただけると思います。それに向って、ぜひ一緒に考えていくことができればと思います。

 自然は年毎に厳しくなってきています。東北だけでなく、最近の台風で、紀伊半島は壊滅的な打撃を受けました。そうしたことも含めて、僕たちの生活のあり方をもう一度根本から考え直さなければならないのではないかと痛感します。八ツ場ダム工事を続行すべきか否か、諫早湾の開門をどうするか、などの問題は、簡単な二者択一で答えられない難しい問題であると同時に、過去の我々の自然との付き合い方がよかったのかどうか、もう一度検討しなおすように問いかけているように思います。

 もっとも、このようなことがはっきり言えるようになったのは最近のことであり、これは議論の中で自分の立場が次第にはっきりできるようになってきたからです。僕の立場は、皆さんのように決定的な立場が最初から決まっているわけではなく、いろいろと試行錯誤しながら、突き当たり、曲がりくねり進んでいます。ご教示いただければ幸いです。

 ただし、正直を言って、Twitterにはもう関与しないつもりです。もともと瞬間的な判断力に欠けていますので、短く的確に書くことは無理です。それと同時に、たしかに災害時に、Twitter情報がもっとも早くて正確であったという利点もあるとは思いますが、少なくとも公共的な場に出すべきでない、人を傷つけるような言葉が数多く飛び交い、とても読むに耐えません。最近若い方に聞くと、ユーチューブの動画の中には、撮影禁止のところや、個人のプライバシーを侵害したようなものが多数あるということです。

 数年前、僕は自分の哲学を作り上げていくのに、HPを使いました。けれども、その後、ずっとHPからもブログからも離れていて、今回、はじめて臨時のブログを開設しましたが、これも今後定期的に更新していくつもりはなく、特別のことがない限り、閉鎖はしませんが、そのまま放置することになると思います。ネットを使いこなすのは、若いうちでないと、ちょっと無理で、とりわけ、時間をかける思索にはあまり向いていないように思います。

 ただ、前にも書きましたように、ネットに積極的に関わるみなさんには、ネットの倫理というのをきちんと確立していただきたいということを改めて強く要望します。そうでなければ弱者いじめの悪魔の所業になります。ネットを自在に使いこなす人は、他の人もみな同じようにできるとつい思いがちでしょうが、そうではなく、苦手な人はたくさんいます。当事者が見ていないところで悪口を言いあうのが、はたして倫理にかなうことかどうか、ぜひ皆さんの良識で判断してください。

 とりあえず、これから先に進むためには、少し時間をかけて、思索を深めていくことが必要ですので、しばらくブログを離れます。ただ、先に書きましたように、震災は過去の問題ではなく、現在、そして未来の問題でもあるという基本の立場から、発言すべきことがあれば、発言していきたいと思います。

2011年9月12日 (月)

自然災害説は間違っている

 少し挑発的な題をつけましたが、もちろん自然災害説が全面的に間違っているというわけではありません。地震や津波がなぜ起るのか、それを純粋な自然現象として、自然科学的に追究することは必要です。けれども、いま問題にしたいのはそのことではありません。多くの人が災害で亡くなり、多くの人が被害を受けられたことを問題にしたいということです。もしあえて分けていえば、地震自体は自然現象といってもよいでしょうが、地震被害は自然だけでなく、人間が関わっているということです。自然現象論者も、自分の説は被害のことは無関係だ、などと言うのではないでしょう。そのことをはっきりさせておく必要があります。そして、僕は被害の問題まで含めて考える場合に、自然と人間の生活は相互関係的に、つまり縁起的に考え、一体として見ていくべきだと主張し、それを純粋に自然だけが原因だという説を誤りだと批判します。

 なぜ、この問題が大事かというと、それが復興計画を立てていく上で、ポイントとなるからです。それを以下に論じます。

 なお、原発の問題との関係ですが、両者を切り離して、地震・津波は純然たる自然災害で、原発は人災だという論者も多くいます。一見もっともそうですが、僕は両者を切り分けることに反対です。もちろん、対応の仕方はまったく違いますが、いずれも人間と自然との関わりの中で生まれたということでは、本質的に連続しています。

 現在、復興計画が遅れており、非常に困難な状態が続いています。それは、災害の規模が大きすぎて、手が付けられないという現状もあります。先日、はじめて気仙沼や陸前高田に行って来ましたが、被災直後と変わらないままの状態に言葉もありませんでした。

 けれども、そもそも復興計画を立てる理念が欠けているように思います。小規模であれば、原状復帰ということで問題ありませんが、原状に戻せる状態でなければ、それに対して、どのような理念で新たな構想を描くか、ということが問題になります。

 その時、自然災害説からは適切な理念が生まれてこないのではないか、と思うのです。自然と人間生活を切り離してしまうと、自然災害は諦めるしかないということになるか、それへの対策を立てるとなれば、堤防を高くするとか、津波の来ない高台に住居を移転するとか、とかいうことしかないでしょう。しかし、堤防を高くすることには限界があります。高台移転ということは、一つの方針として認めうることです。しかし、現地をご覧になれば分かるように、高台などそれほど広くありません。そこに、従来規模の都市を作るなど、とても無理なことです。そのために大規模な造成を行い、山を切り開いて平地を作ったとしたら、それは新たな自然破壊を招くことになります。津波は来ないけれども、がけ崩れで巨大な被害が出る、ということも出てくるでしょう。従って、高台移転といっても、限界があります。

 そうすると、どうなるでしょうか。すでに被災地の人口流出は始まっています。恐らくそれはどんどん続くでしょう。もとのところに住めず、仕事もない、ということであれば、他の地域に移住するのも仕方ないことでしょう。けれども、それによって、被災地はますます衰亡し、年寄りだけ残って、荒れ果てていく、という結果になってしまうでしょう。それでなくても、今回の被災地の多くの地域は、交通が不便で、海岸沿いの僅かな平地に点線のようにつながっている小規模な都市や村落で、以前から過疎化が進んでいたところです。

 この地域だけではなく、今日、少子高齢化によって、各地域の過疎化は厳しい状態にあります。このことは以前の文章で指摘しました。平成の大合併などと大騒ぎをして、実質的には過疎地の切捨てで、どの地域も自然がどんどん荒廃しています。自然は自然のままで放っておけばよいのではないのです。人が関わらないと、自然はますます荒れて、手が付けられなくなっていきます。

 それならばと、被災地の漁業へ、外部資本の導入という案も出て、いまのところ地元の反対でストップしています。外部資本の導入は危険です。外部資本は、儲かる限り資金を投入しますが、もし儲からなくなったら、地元のことなど考えずにさっさと引き上げます。そうすれば、もっとひどい荒廃が残るでしょう。原発を誘致した過疎地は、同じ発想で、地元振興のために誘致しました。それがどんな結果になったかは、よく分かるでしょう。同じ轍を踏んではいけません。

 同じ意味で、環太平洋経済連携協定(TTP)に安易に加入して農産物の輸入を自由化して、日本の農業をつぶすことは、とんでもないことです。小規模な農業が自然と人間の橋渡しをして、自然保護に尽してきたことをもう一度再認識しなければなりません。その役割をこれから何がどのように担っていけるかという構想をきちんと描くことなしに、つぶしてしまいことはまったく危険なことです。

 過疎化の問題は、他方で大都市、とりわけ首都圏の巨大化の危険と裏腹です。首都圏の地震は必ず起こると予想されています。そのときの被害がどれほどになるか、誰にも想像できません。東日本大震災の時でも、東京は帰宅難民でごった返しました。まして、直下型の地震が起こったら、どうなるか、そんなことは考えたくありませんが、それでも実際に必ず来ることです。

 地震は自然災害だという論者は、それも仕方ないと言うのでしょうか。地震を自然災害とする論者を許せないのは、この点です。手を束ねて何もせずに、起ってしまえば、どんな巨大な被害も自然災害だから仕方ない、というのでは余りに無責任ではないでしょうか。それは、宗教の問題ではなく、政治の問題だ、とでも言うのでしょうか。しかし、政治に理念を示すのは宗教ではないのですか。人が必ず死ぬと分かっていながら、それは自分の役割ではないと言って、そっぽを向こうと言うのですか。それを放棄したら、宗教の役割とは一体何なのですか。何か起った後の「心のケア」だけが宗教の問題ではありません。もっと大事な、根本の理念を示すのこそ宗教の本当の役割ではないのですか。もし誰も耳を傾けてくれなくても、それでも最大限の努力をすべきではないのですか。

 今日一番大事なことは、首都圏の巨大化と、それに対する地域の過疎化とのバランスをもう一度考え直し、人間と自然との相互関係を取り戻していくことだと思います。その過程で、伝統的な日本の宗教はもう一度重要な役割を果たしうるのではないかと考えます。伝統的な日本の宗教は、自然と人間の橋渡しをしてきました。それは、かつての小規模な農業が果たしていた役割と一体になっていたところがあります。今日、状況が変わり、伝統的な宗教も危機に瀕しています。それも仕方ないところがありますが、でも、その役割をもう一度考え直し、その役割をどのように新しい形で再構築できるか、これをきちんと考えることは急務だと思います。

 震災を自然災害と考える論者は、医学で言えば、二、三十年前の西洋医学のようなもので、癌になれば、切るしかない、切って治らないものであれば、それは放置して、それでも延命は必ずする、というような考え方に近いものです。それは、病気を自然現象と見るからです。今日の医学は違ってきています。病気は単なる自然現象ではなく、患者という人間の生き方と密接に関わっています。患者の生き方に従って、さまざまな療法がありえます。その中で、医療従事者自身のあり方も問われています。そのような総合性の中で、病気というものが捉えられるようになってきています。

 今の日本の宗教者はあまりに鈍感です。経典解釈でどうとか、世界の宗教界のトップリーダーがどういったとか、中観派解釈ではどうなるとか、それもよいでしょう。でも、大事なことは、その理論が現実にどのように適用できるか、ということです。それを他人の借り物の理論ではなく、本当に自分の身についた理論として考え抜くことです。現実に力を持たない理論は、理論としての役割を果たしません。

 先日も被災地の浄土真宗の僧侶の方が、こんな大変な状況なのに、本山では、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」は違うなどと言っていて、何になるんだ、と怒っていました。復興のための努力が、「聖道の慈悲」であろうが「浄土の慈悲」であろうが、そんなことを議論するのは空虚です。世俗諦であろうが第一義諦であろうが、どちらでもよいことです。本当に現実に力を持つ理論を築かなければならないのです。

 僕は、現実の力になろうと言う方であれば、どなたとでも力を合わせていきたいと思います。僕は、現場でボランティアとして力仕事をする力がありません。僕にできることは、少し離れた場で、歴史と現実を見つめ、そこからどのような理論を構築し、宗教的な理念を示すことができるか、ということに力を尽すことだけです。

 自然災害論者の方も、その理論から現実への有効な対応ができるのであれば、協力します。違う説でも相互に議論し、認め合い、よりよい方向へ向って協力していくことは不可欠です。僕も自分の説が絶対とは思いません。と言うよりも、試行錯誤の連続ですので、欠点だらけでしょう。それは、批判を受けながら修正してきます。けれども、自然現象だから諦めるほかないというような無責任なことを言って努力を放棄するのは間違っています。あまつさえ、まじめに考えようという人を、議論もせずにツイッターとやらで嘲笑し、暴力的に抹殺しようというのであれば、それは仏教者とは言えない悪魔の所行であり、僕は絶対に許しません。断固闘います。

2011年9月10日 (土)

地震は自然現象か?

 地震は純粋な自然現象だとする方々と、しばらく論争が続いています。僕は、純然たる自然現象とはいえない、という説です。一見おかしく聞こえ、自然現象説のほうが正しそうに思えるかもしれません。それは、僕の説明がいささか不十分で、十分に趣旨を理解していただけなかったからだと思います。そこで、少し説明を加えます。まだ分かりにくいところがあるかと思いますが、ともあれこれをお読みいただいた上で、ぜひ批判や疑問点のご指摘をお願いします。やはり相互にきちんと相手の主張を理解しなければ、建設的な議論になりませんので。

 もし誰も人がいないところで地震が起こり、被害が何もなければ、それは純然たる自然現象といえるでしょう。例えば、人類発生以前の地球で起こった地震の場合はそういえるかもしれません。もっとも、それが今日のボクたちのあり方に何らかの影響を及ぼしているのであれば、純然たる自然現象とも言えなくなりますが。

 あるいは、今回の大地震の場合でも、それを人命や生活上の被害と無関係に、それがどうして起こったか研究する場合には、純然たる自然現象として見ることになります。もっとも、その場合も、科学的営為という人間の行為が関わってきますので、その点では、純然たる自然現象とはいえません。本当に純然たる自然現象というのは、誰も知らないところで起った、人間の認知ともまったく関係ない場合、ということになりますが、それは知られないのであるから、問題にしようもありません。

 ここで問題にしたいのは、そのような場合でなく、さまざまな被害が起るような地震です。もちろん地震だけでなく、台風などの自然災害の場合も同じですが、ここでは、地震の場合を例としましょう。そのようなわけで、被害ということを別にして、自然現象と見ることはありえますし、自然現象として研究することは重要です。もし地震自然災害論者が、その意味で言っているのであれば、僕も賛成です。でも、そうではなく、さまざまな被害を含めて考えた時、それを純然たる自然現象と言えるかというと、僕はそうではないと考えます。

 寒川旭『地震の日本史』(中公新書)の「はじめに」に、こういう文章があります。

「ひとたび大地震が発生した場合、日々の暮らしを豊かにする文明の産物が、牙をむいて襲いかかってくる。家族の団欒の場である住居や家具、電車や自動車などの交通機関、橋梁や高速道路などの建造物が、私たちの生命を脅かす凶器に一変し、石油などのエネルギー資源が大災害を引き起こす要因となる。このように、都市化が進むにつれて被害の規模が拡大して複雑さを増すことになり、同じ地域が地震に襲われても、古代と現代では被害の様相が異なる。」(同書、ii頁)

 この言い方は非常に分かりやすいと思います。地震の被害は、かならずしも純然たる自然現象だけではありません。地震が起こり、津波が襲うところに人が家を作り、産業を興し、生活していることによって、はじめて被害が起るのです。人がどのようなものを作り、どのくらいの数の人が生活し、どんな文明を持っているかで、その被害も違ってきます。例えば、人口が少なく、家も木造で小さく、コンクリートもなく、電気もない時代であれば、同じ規模の地震であっても、はるかに被害は少ないでしょう。

 地震や津波の被害は、そのときだけでは済みません。命が助かればよいと言うものではなく、ずっと後まで生活が破壊され、精神的に苦しむ場合もあります。それまで含めて考えるべきでしょう。その時、それまでも自然現象と言えるかというと、疑問です。それは切り離して考えるべきだ、と言うかもしれませんが、すべてが一連である以上、切り離すことは無理です。もちろん、人間も最終的には自然の一部ですので、その意味ですべては自然だというのであれば、それは認めてもよいと思いますが。

 仏教では縁起ということを言います。もし地震は自然現象で人間は関係ない、というのであれば、人間と自然とは無関係で、縁起的な関係がない、ということになります。でも、それは仏教的に考えてもおかしいと思います。人間も自然も相互に切り離せない関係の中に入っている、それが縁起ということではないでしょうか。

 人は自然と対話しながら暮らしてきました。それこそ、もっとも自然な人間の生活です。ところが、自然は人間とは別だ、という考え方が近代になって入ってきました。別に僕は古いものは何でもよくて、近代のものは悪い、というわけではありませんが、少なくとも、今日あまりに常識化してしまった、人間と自然を分ける考え方は間違っていると思います。それは、自然を人間と無関係だとして、自然への関心を失わせ、自然を疎外することになってしまいます。自然と対話しながら、自然に対してどのように対応したらよいのか、自然と一緒に考えていく姿勢が必要ではないでしょうか。自然は自分たちとは別物だから、利用できるだけ利用すればよいとか、津波が堤防を越えたから今度は堤防をもっと高くする、というような、自然を拒否した一方的な対応だけでは無理と思うのです。

 ところで、僕は「自然の奥に神がいる」と主張してきたが、それは自然との対話ということとは違うではないか、と言われるかもしれません(ちなみに、『自然の奥の神々』というのは、内山節さんの本の名で、とてもよい本です)。そのことを説明しましょう。

 いま目の前にあなたがいるとします。あなたは、確かにある意味では、自然物質です。細胞からできているし、そのもとは原子、さらには素粒子に分解できるでしょう。そうであれば、僕が真向っているのは、純然たる自然現象とも言えます。でも、だからと言って、あなたは自然現象に過ぎない、とは誰も思わないでしょう。もし自然現象ならば、殺そうが、分解しようが、し放題ということになります。でも、あなたはあなたであって、純然たる自然現象とは違います。それはなぜでしょうか。心があるからだ、というかもしれませんが、心などというものは、見ることができません。本当にそんなものがあるかどうか、誰にも分かりません。そもそも、あなたが人間なのか、それとも人間の形をした精巧な人形であるのかさえも、本当は分かりません。

 それでも、あなたに対して、ものに対するのと違う対応をするのはなぜでしょうか。それを僕は他者との関係の持ち方の違いと考えます。ものに対するのと、あなたに対するのでは、異なる関係を結ぶということです。仏教的な言い方をすれば、どういう縁起的な関係にあるか、といってもよいでしょう。ここで大事なのは、別にあなたの奥に「心」という不変な実体があって、それが人間とそれ以外のものを分けているわけではないと言うことです。その点、仏教の無実体、無我の立場は正しいと思います。

 ですから、その意味では、人間だけが区別されなければならない必然性はありません。手近な例でいえば、もしかしたらペットとの関係のほうが、人間との関係より緊密な場合もあるでしょう。先の例で言えば、人間であるか、人間の形をした人形であるか、というのは、そのこと自体はどちらでもよいのです。鉄腕アトムのようなロボットがいれば、やはり「もの」に対するのではなく、人に対するように対応するでしょう。

 自然もまた、同様ではないかと思います。それを自分とは関係ないものだとして拒否すれば、それは純然たる自然現象ということになります。でも、そうではなく、自然も同じ仲間と考えれば、別の対応が出てきます。その時、海や山の「心」のようなものを考えたとしても、それを簡単に迷信的、前近代的で、笑うべき見方だと言えるでしょうか。

 「神」というのは、何か実体的にあるものではありません。自然の不思議さ、人知を超えた畏敬すべきあり方を言います。自然の「心」といってもよいと思います。ですから、「神」は人間に対して、人間的な道徳で対するわけではありません。「神」はすべて善神であり、人間に対してよいことしかしない、というような考え方は、かえって自然を人間の枠の中に取り込んでしまうことで、おかしいことです。自然は人知を超えた他者です。人間に対して害をなすことをするかもしれません。だからこそ、自然、あるいは自然の「神」と対話することが必要なのです。

 論争の発端になった「天罰」論に戻ります。「天罰」という言い方は、確かに誤解を招きやすい表現で、僕も違和感を持ちます。当初、石原慎太郎の「天罰」発言に賛成するような言い方をしたのは、自然を人間の営みと切り離して純粋自然現象とみる見方に対して、少なくとも、「天罰」という言い方は、人間の営みと関係させ、それを反省させる意味を持つと考えたからです。でも、石原の著作『新・堕落論』を読むと、副題に「我欲と天罰」とあるにも関わらず、「天」のことにはまったく触れずに、手前勝手な時代批判をするばかりで、まったく僕の考えていることと異なります。ですから、誤解を招かないように、石原「天罰」論への賛成は取り下げます。

 以上、取り急ぎ、僕の考えをいささか述べてみました。まだ不十分だと思いますが、ご指摘をいただきながら、お答えできればと思います。ぜひ生産的な論争になりますことを願っています。

2011年8月23日 (火)

天罰論再考

 遅ればせながら、『サンガ・ジャパン』第6号「震災と祈り」特集号を読みました。

 そこには、震災に対するいくつかの宗教からみた見方が提示されています。

 第1は、震災を純然たる自然現象とみる見方。これは、佐藤哲朗氏の立場(「東日本大震災は「天罰」なのか? 『大般涅槃経』から読み解く初期仏教の「地震」論」)です。氏は、『大般涅槃経』に出る地震の原因に関する説を検討し、そこには二つの原因があるとします。第一は自然現象。第二はお釈迦様を賞賛するために地の神々が大地を揺るがした時。ところが、お釈迦様はもういないので、第二の可能性はなく、そうなると地震は純然たる自然現象以外ありえないと結論します。

 島田裕巳氏は「東日本大震災は天罰か?」で、天罰や祟りのような災害観は中世のものであって、現代では成り立たないとしています。

 以上の二人が、災害を自然現象とみなすのに対して、その奥に人間を超えた力との関係を見ようとするのに、大澤真幸氏(「オウムから原発へ」)と、ダライ・ラマ(佐藤剛裕「ダライ・ラマの慈悲とチベットの大地母神」)の説があります。

 大澤氏は、「天罰」という見方は否定しながらも、大震災(津波)をノアの洪水と比較し、そこに「神の超越性を残存させる」としています。また、原発事故をヨブ記と比較しています。もっとも氏の見方は、結局のところ、どうも聖書の見方を否定するような結論になっているようです。

 それに対して、自然を超えた力をはっきり認めて、それとの関係の重要性を説いているのが、佐藤剛裕氏の紹介するダライ・ラマの立場です。チベットの人たちの地震に対する理解は、「我々人間の自然に対する負債が積もり積もったため、返済を余儀なくされたのだ」というものだと言います。そこで、ダライ・ラマの指導下で、チベット仏教の僧たちは、地震に際して、「大地の主と四大の女神たちへの供養文」というのを読むそうです。それは、「自然に対する負債を返済して対称性を保とうという古い考え方」に基くものです。佐藤氏の論述をもう少し引くと、

「仏教を新しい土地に広めようとした人々は、これらの神々を力によってねじ伏せるような方法をとりませんでした。寺院などを建設するというような、土地から便益を一方的に享受するだけでは土地を司る神々の怒りや嫉みを買ってしまう。つまり自然に対する大きな負債が発生するのだととらえていたのです。だからこそこのような供養の儀礼で、償いとして神々を饗宴に招いて酒や肉などを振る舞い、共に歌い踊ることによって、女神たちに母としての慈悲を垂れるように、つまり菩提心を起すようにと祈るのです。」

 この見方はまったく納得のいくもので、僕も賛成です。日本の仏教もじつは長い間、このような見方をずっとしてきましたし、僕はその見方を今でも生きていると考えます。その点で、このような見方を中世的として否定する島田氏と異なります。また、神々が常に慈悲だけの存在で、人々に苦痛を与えることがないとする佐藤哲朗氏の説とも異なります。

 神々は、人々から苦しめられれば、呻くこともあり、暴れることもあります。だからこそ、漁師も農民も、自然と対話しながら、自然をいじめないようにと努めてきたのです。ところが、都市化と過疎化の中で、自然はどんどん破壊され、人々は自然の中の神々との対話を忘れてしまいました。自然は単に自然現象としてしか見られません。それでよいのか、というのが私の問いかけです。ダライ・ラマだけが、その点をきちんと見据えているように思います。僕はダライ・ラマに賛成です。

2011年8月 8日 (月)

五山送り火と放射能問題

 京都の五山送り火に、震災で倒れた陸前高田市の松にメッセージを記して燃やす計画が、放射能汚染の不安があるということで中止になったということです。保存会側は、市民の反対があり、不安があるからという理由で中止にしたということです。しかし、調査で、放射能汚染は全くなく、風評以外の何ものでもありません。もし証拠がないけれども不安があるから、というのが理由になるのならば、それこそ、福島の子供と遊んでも放射能がうつるはずはないけれども、それでも不安があるから付き合うな、という論理が正当化されることになります。京都に移り住んで、伝統の行事に心慰められていましたが、この措置には唖然としないわけに行きません。

 しかも、反対というのは、メールやファックス数十通に過ぎないということです。その措置に対する批判反対もまた、数十通あるということですので、なぜ中止側の肩を持つのか、理由が分かりません。五山送り火の保存会は京都市とも関係を持った公的な組織であり、それがそのような風評を公的に認めたということは、画期的な大事件です。京都は差別の強い土地だということは以前から聞いていましたが、あまりにひどすぎる話です。

 京都市長は、その反応に驚き、一部の薪を京都に持ち帰り、送り火と別に燃やすということですが、これもよく分からない措置です。どうして、送り火と別にしなければならないのか、その理由が分かりません。差別を正当化することになるだけです。慰霊や追悼に差別があってはなりません。

 これでは、折角の伝統の送り火も心安らかに見ることはできません。五山送り火で震災の被害者を追悼する計画もあるそうですが、そんな偽善的なことはしないほうがよい。あまりに被災者を馬鹿にした話で、被災者を傷つけるだけです。そんな差別で慰霊されるはずがないでしょう。

 仏教はこのような差別の正当化に手を貸してはなりません。仏教界は五山送り火に非協力の態度を明確にすべきです。今年の五山送り火は、本当に悲しい行事になりそうです。

2011年5月15日 (日)

自然はただの自然か?(2)

 自然の背後に何ものかがいるのかどうか。これはまさしく前章までの議論から明らかであろう。いるかどうか、存在を問うことは意味がない。存在より関係が先立つ。誰と、どのように関係を結ぶか、という問題である。

 例えば、目の前に人が立っているとしよう。目に見えるのは衣服を着た人の形の物体だけである。それでも僕は、その物体を人として認識し、そのように関係を持つ。客観的にその物体に心があるかどうかは、証明を要する問題ではない。昏睡して、反応を示さない病人に対してでも、同じように対するであろう。あるいは、ペットに対しても、人に対するのと同じように呼びかけ、抱擁するだろう。それならば、花に対してはどうだろうか。花に対しても呼びかけ、いとおしむことがあるに違いない。

 内山節によると、一九六五年までは、日本の各地で人がキツネにだまされた話が伝えられている。それが、一九六五年を契機に、キツネが人をだますという話が急速に消えてしまったという(『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』、講談社現代新書、二〇〇七)。即ち、一九六五年まではキツネは人をだます存在として認識されていた。それが、それ以後には、キツネは単なる動物として認識されるようになったのである。キツネに対する関係のとり方が違うのである。その場合、内山が言うように、問題は、実際にキツネがだますかどうか、ということではない。キツネはだます存在として人々の生活の中に生きていた。人々はだますキツネやタヌキやムジナと一緒に生活していた。ところが、そのような村に外国人が入ってきたことがあった。そうすると、村人はキツネにだまされても、外国人がだまされることはなかったという。「おそらくその理由は、その人を包み込んでいる世界が違うから、なのであろう」(同、一一五頁)と内山は指摘する。

 今日、エコロジーの問題が盛んに論じられ、「環境倫理学」が主張される。その中で、人間と同様に、自然にも権利があるという主張が強くなっている。人間と同じように、動物にも、植物にも、あるいは岩にも生存権があるというのである。人間に害を及ぼす細菌にも同じ権利を認めるべきだ、という主張にもなる(ドデリック・F・ナッシュ『自然の権利』、松野弘訳、ミネルヴァ書房、二〇一一)。だが、僕たちから見れば、それは人間主義的な権利の思想を人間以外のものにまで波及させ、同一化させるという、人間主義の拡張のようにしか見えない。だから、クジラの権利を主張して、人間を害してもよいという、奇妙な論理にもなるのである。このような主張では、具体的な関係ということは考えられていない。クジラとどんな関係を結ぶかということは、まったく考慮されていない。権利は確固として先天的にそれ自体で「ある」ものとされるのである。

 野本寛一によれば、高山市の長老の話として、こう伝えている。「自分の屋敷でも、家を建て替える時には、解体後直ちに新しい家の基礎工事にかかってはいけない。一旦、屋敷地を自然に帰さなければならない。そのためには、建物を壊し、平した地に植物の種を蒔くとよい。……芽が出れば、屋敷地は自然に帰ったことになる。その後、初めて基礎工事にかかってよいことになるのだと伝えられている――」(『地霊の復権』、岩波書店、二〇一一、一頁)。野本は、「こうした伝承の中には、この国の人びとが地霊・精霊に対して細やかな心づかいをしてきたことが示されている」(同)と論じている。ここには、「自然の権利」とは全く異なる「自然との関係」という視点を見て取ることができる。

 その地霊に対する心づかいが、高度成長期以来、消えてしまった。「近代化、開発至上主義の中で、地霊の凝結した場、地霊安息の場、小さな民俗神の場は踏みにじられ、消滅を重ねている。地霊・精霊の呻きが聞こえる」(同、二頁)と、警告している。

 「地霊・精霊の呻き」など、聞こえるはずがない、それは譬喩以上の意味を持たない、という人もいるであろう。それはちょうど、キツネにだまされるかどうか、ということと同じである。内山が言うように、「キツネにだまされる能力」もまた、重要な能力なのであり、その能力がないならば、つまりそのような関係が結べなければ、キツネにだまされることはできないのである。

 近代の合理主義と経済優先の開発は、キツネたちのだます力を奪い、地霊や精霊たちに理不尽な暴力を振い続けてきた。もはや彼らの声はほとんど聞きがたくなっている。僕もまた、彼らの声を十分に聞くことができるとは言えない。それでも、その痛みのいく分かは分かる。

 二〇一一年の東日本大震災のときに、僕は、「人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動」があったのではないかと論じたところ、多くの方の批判を招くことになった。その論点は、結局、このように自然を超えた何かと関係を結ぶことを認めるかどうか、ということに帰着する。多くの論者は、自然の災害はあくまで自然のことであり、その背後の力を認めることを拒否した。それに対して、僕は、そのような力を認めるべきだと論じた。自然の底で、何ものかが呻くこともあれば、怒って暴れることもありうるのではないか。そのような考え方を否定すべきではない。議論は平行線であるが、これはきわめて重要な問題である。

 東北地方は、古くから公式的な仏教の教理に解消できないような、さまざまな独自の神仏への信仰を育み、また、死者たちと共存してきた。それは今日でもかなり生きている。そのように、古くからの信仰がかなり強く生きている土地は今でも他にもある。京都もそうであるし、大師信仰の根強い四国もそうである。それに対して、そのような古くからの信仰がもっとも消えてしまったのが東京である。大都会の中では、死者たちや地霊たちの声は極めて聞き取りにくくなっている。その空白の状況の中で、「霊性」を説く新新宗教などが流行したりする。オウム真理教の地盤もそのようなところにあったのではないだろうか。

 東北の復興に当って、大都会の合理主義の論理ですべてを片付けてはいけない。それが自然の災害ということで説明がついたとしても、その背後の力を認めようという発想を、頭から否定してはいけないのではないか。すでに述べたように、科学がすべてではない。科学を制御する道は、もしかしたら、一見ナンセンスに見える「冥」の世界の力を認め、その世界のものたちと関係を持つことによってなされるのではないだろうか。それは、南方熊楠が開いた道を継承していくところに成り立つように思われる。

自然はただの自然か?(1)

(ネット論争の結果、分かったことは、自然をただの自然と見るのか、その奥に何ものか、他者的なものを認めるか、というところが最大の論点だということです。ボクはどこまでも後者の立場に立ちます。以下、現在準備中の本の一節ですが、ちょうど関連します。やや長いので、2回に分載します)

 日本に近代的な「自然」の観念ができるのは、もちろん近代になってからのことである。それまでは、自然世界のことは、天地などと呼び、その法則は、天理・道理などと呼ばれた。天地は我々の生活が成り立っている場であり、客観視された自然と違い、我々に恩恵を与えるものであり、天地の理法は自然法則というだけでなく、道徳の原理ともなるものであった。

 「自然」という言葉もあるが、これは自ずからなるに任せることで、老荘思想に基き、仏教にも取り入れられた。『老子』に、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」と言われているように、天地のもととなる道の根源的なあり方である。人為を取り去り、天地の道理に一体化するもっとも高い境地を意味する。このように、「自然」は外界の天地のあり方であるとともに、人間の理想のあり方でもある。「無為自然」という言い方がよくなされるが、人為を加えない「自然」のあり方をさらに明確化している。親鸞が「自然法爾」という言葉を用いていることはよく知られているが、「行者のはからひ」を否定して阿弥陀仏に任せることを意味している。

 その「自然」が、近代になってnatureの訳語として用いられることになった。この近代的な自然は、ヨーロッパの伝統を受けて、人間の倫理や宗教的なあり方とは切り離された純粋に客観的な存在とみなされた。そのような「自然」の観念は、十九世紀の終わり頃にかなり普及し、それは科学のみならず、知識人の自然観全体に大きな影響を与えた(柳父章『翻訳語成立事情』)。志賀重昂の『日本風景論』(一八九四)は、日本の自然景観を宗教や倫理と切り離して、鑑賞すべき「風景」として捉えたことで知られるが、そこでは、日本の自然の特徴として、「気候、海流の多変多様なる事」「水蒸気の多量なる事」「火山岩の多々なる事」「流水の浸蝕激烈なる事」が挙げられている。志賀はまた、登山家としても知られるが、宗教性を持たないスポーツとしての登山も、近代の産物である。

 しかしながら、このような新しい自然観は、完全に伝統的なものと切り離されているかというと、そういうわけではない。例えば、徳富蘆花の『自然と人生』(一九〇〇)は、文字通り、「自然」と「人生」を対比させ、「自然」を客観視して賛美する、近代的な自然観に立つかのように見える。しかしそこでは、「自然は春に於てまさしく慈母なり。人は自然と融け合ひ、自然の懐に抱かれて、限りある人生を哀み、限りなき永遠を慕ふ。即ち慈母の懐に抱かれて、一種甘へる如き悲哀を感ずるなり」(「春の悲哀」)というように、自然が人生を包容し、救いを与えるような存在と見られている。ここには、キリスト教的な自然観というよりは、まさしく自然と人間の融合という伝統的な自然観と結びついた発想が入り込んでいる。

 こうした自然による救いは、日本近代の知識人の一つの特徴的な思想となる。そのような典型的な例は、志賀直哉の『暗夜行路』に見られる。主人公謙作は、大山の自然の中で、「自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込で行くのを感じた」ことで、救いを得る。このように、近代の日本の自然観には、独特のものがある。そこでは、一方で自然を自己の外なるものとして立てる西洋的な自然観を受け入れるとともに、その中に自己を融解させることに救いを見出す。自己主張ではなく、自己を大きなものの中に解消することを求めるのである。その自然は、生命のわいせつさを除去した、きわめて抽象的、観念的に理想化され、純化されている。親鸞の自然法爾も、このような観点から見直されることになる。それが、日本的と言われる「甘えの構造」を作り、天皇のために自己を捨てるという発想につながるのである。

 そのような近代日本の自然観の流れの中にあって、異色なのが南方熊楠である。南方は独学で粘菌学、生態学などの自然科学の領域に成果を挙げたが、科学信仰に陥ることはない。彼によれば、「科学というも、実は予をもって知れば、真言の僅少の一分に過ぎず。ただその一分の相を順序づけて整理し、人間社会を利するに便するをいうに過ぎざるなり」(明治三六年七月一八日、土宜法龍宛)と、その限界が指摘される。そこには科学信仰が成り立つ余地がない。「顕」の世界の理法である科学は、「冥」の世界に広がる真言の中に含み込まれる。それ故、「人間の智識をもって絶対の真理を知らんなどは及びもつかぬこと」(昭和六年八月二〇日、岩田準一宛)である。

 その自然観は西洋的な外なる自然というものとは異なり、自分たち人間もその一部であるような生きた自然である。「今の学問は粘菌と人間とはまったく同じからずということばかり論究序述して教えるから、専門家の外には少しも世益なきなり」(同)と、人間と粘菌を同類のものと見ている。南方が研究対象として選んだ粘菌は、動物とも植物ともつかず、生命体のようでもあり、無生物のようにもなる曖昧で境界的な存在である。それ故、「人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる」(同)ということになる。

 人間の目で見られたことは、浅薄な見方に過ぎず、別の目で見れば、生のように見えることが死であり、死のように見えることが実は生であるかもしれない。それ故、「有罪の人が死に瀕しおると地獄には地獄の衆生が一人生るると期待する。その人また気力をとり戻すと、地獄の方では今生まれかかった地獄の子供が難産で流死しそうだとわめく。いよいよその人死して眷属の人々が哭き出すと、地獄ではまず無事で生まれたといきまく」ということも、ありえないことではないのである。「顕」だけしか見ない目には、「冥」の世界は分からない。痛快な世界観である。

 世評に高い「南方曼荼羅」も、このような視点から見られるべきである。「不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり」(明治三六年七月一八日、土宜法龍宛)と、不思議に五種類を立てる。事不思議は科学で解明され、心不思議は心理学などで解明され、事不思議は数学で解明される。理不思議はその奥にあるものであるが、これら四つの不思議は「不思議とは称するものの、大いに大日如来の大不思議とは異にして、法則だに立たんには、必ず人智にて知りうるものと思考す」(同)。即ち、「顕」の領域に属するものである。いわゆる南方曼荼羅の図は、この四つの領域の中での事理の錯綜した関係を示すものである。

 ところが、「大日如来の不思議」は、それらすべてを超えている。「すべて画にあらわれし外に何があるか、それこそ、大日、本体の大不思議なり」(同)と言われている。このように、南方によれば、大日の不思議は図示できないという。しかし、果たしてそうであろうか。法則で説明できない「冥」の世界を明らかにするのが、本当の曼荼羅ではないだろうか(南方自身は、自らの図を曼荼羅とは呼んでいるわけではないが)。

 南方が、神社合祀に反対したことはよく知られている。「目前の私慾に目がくれ、祖先以来崇敬し来たれる古社を潰して快とするようなものは、外寇に通款し内情を洩らすほどのことを何とも思わぬこと当然なり」(明治四四年五月二五日、柳田国男宛)と憤慨している。神社の森にはさまざまな動植物が繁殖する。それを取り潰して人間の勝手にするのは、まさしくそれらの生物を絶滅させることに他ならない。南方の発想をエコロジーということはできるかもしれないが、その根底にあるのは、人間や動植物だけでなく、地獄やその他の異界をも含む大日の不思議の世界である。

2011年5月 5日 (木)

天罰問題元原稿

(もととなる記事がわからないというご意見がありましたので、掲載します)

 大震災による犠牲者の方々に慎んで哀悼の意を表すとともに、一日も早い原発事故の終息と被災地の復興を心から願っています。

 石原慎太郎東京都知事が震災を「天罰」と発言したことで批判を浴び、取り消した。確かに氏の言い方は誤解を招きやすく、被災者を傷つけるところがあった。しかし、天罰という見方は、必ずしも不適当と言えない。もちろん被災地の方が悪いのではない。今日の日本全体、あるいは世界全体が、どこか間違っていたのではないか。経済だけを優先し、科学技術の発達を謳歌してきた人間の傲慢が、環境の破壊や社会のゆがみを招き、そのひずみが強者にではなく、弱者にいっそう厳しい形で襲い掛かってきたと見るべきではないか。

 日蓮の『立正安国論』では、国が誤れば、神仏に見捨てられ、大きな災害を招くと言っている。その預言を馬鹿げたことと見るべきではない。大災害は人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければいけない。だから、それは被災地だけの問題ではなく、日本全体が責任を持たなければならないことだ。

 大げさかもしれないが、明治以来の近代国家の根本方針の転換が必要である。富国強兵で国力を充実させ、世界の大国にのし上がることを第一目標にしてきた国のあり方が問われている。それこそ、一番でなくてもいいではないですか。ナンバーワンではなく、オンリーワンの平和な文化立国を目指すべきである。

 そのとき、長い歴史を持つ仏教の果たす役割はきわめて大きい。そもそも今回の大震災は貞観以来のことと言われる。これまでのように、近代の範囲だけでものを見るような狭い視野では、これからの日本を作っていくことはできない。千年単位の大きな視野が不可欠である。原発の問題にしても、誰もが不安を感じながら、とりあえず必要だからと、容認してきた。これからは専門家だけに任せず、宗教家や哲学者が大きな見通しをもって発言していかなければいけない。

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