少し挑発的な題をつけましたが、もちろん自然災害説が全面的に間違っているというわけではありません。地震や津波がなぜ起るのか、それを純粋な自然現象として、自然科学的に追究することは必要です。けれども、いま問題にしたいのはそのことではありません。多くの人が災害で亡くなり、多くの人が被害を受けられたことを問題にしたいということです。もしあえて分けていえば、地震自体は自然現象といってもよいでしょうが、地震被害は自然だけでなく、人間が関わっているということです。自然現象論者も、自分の説は被害のことは無関係だ、などと言うのではないでしょう。そのことをはっきりさせておく必要があります。そして、僕は被害の問題まで含めて考える場合に、自然と人間の生活は相互関係的に、つまり縁起的に考え、一体として見ていくべきだと主張し、それを純粋に自然だけが原因だという説を誤りだと批判します。
なぜ、この問題が大事かというと、それが復興計画を立てていく上で、ポイントとなるからです。それを以下に論じます。
なお、原発の問題との関係ですが、両者を切り離して、地震・津波は純然たる自然災害で、原発は人災だという論者も多くいます。一見もっともそうですが、僕は両者を切り分けることに反対です。もちろん、対応の仕方はまったく違いますが、いずれも人間と自然との関わりの中で生まれたということでは、本質的に連続しています。
現在、復興計画が遅れており、非常に困難な状態が続いています。それは、災害の規模が大きすぎて、手が付けられないという現状もあります。先日、はじめて気仙沼や陸前高田に行って来ましたが、被災直後と変わらないままの状態に言葉もありませんでした。
けれども、そもそも復興計画を立てる理念が欠けているように思います。小規模であれば、原状復帰ということで問題ありませんが、原状に戻せる状態でなければ、それに対して、どのような理念で新たな構想を描くか、ということが問題になります。
その時、自然災害説からは適切な理念が生まれてこないのではないか、と思うのです。自然と人間生活を切り離してしまうと、自然災害は諦めるしかないということになるか、それへの対策を立てるとなれば、堤防を高くするとか、津波の来ない高台に住居を移転するとか、とかいうことしかないでしょう。しかし、堤防を高くすることには限界があります。高台移転ということは、一つの方針として認めうることです。しかし、現地をご覧になれば分かるように、高台などそれほど広くありません。そこに、従来規模の都市を作るなど、とても無理なことです。そのために大規模な造成を行い、山を切り開いて平地を作ったとしたら、それは新たな自然破壊を招くことになります。津波は来ないけれども、がけ崩れで巨大な被害が出る、ということも出てくるでしょう。従って、高台移転といっても、限界があります。
そうすると、どうなるでしょうか。すでに被災地の人口流出は始まっています。恐らくそれはどんどん続くでしょう。もとのところに住めず、仕事もない、ということであれば、他の地域に移住するのも仕方ないことでしょう。けれども、それによって、被災地はますます衰亡し、年寄りだけ残って、荒れ果てていく、という結果になってしまうでしょう。それでなくても、今回の被災地の多くの地域は、交通が不便で、海岸沿いの僅かな平地に点線のようにつながっている小規模な都市や村落で、以前から過疎化が進んでいたところです。
この地域だけではなく、今日、少子高齢化によって、各地域の過疎化は厳しい状態にあります。このことは以前の文章で指摘しました。平成の大合併などと大騒ぎをして、実質的には過疎地の切捨てで、どの地域も自然がどんどん荒廃しています。自然は自然のままで放っておけばよいのではないのです。人が関わらないと、自然はますます荒れて、手が付けられなくなっていきます。
それならばと、被災地の漁業へ、外部資本の導入という案も出て、いまのところ地元の反対でストップしています。外部資本の導入は危険です。外部資本は、儲かる限り資金を投入しますが、もし儲からなくなったら、地元のことなど考えずにさっさと引き上げます。そうすれば、もっとひどい荒廃が残るでしょう。原発を誘致した過疎地は、同じ発想で、地元振興のために誘致しました。それがどんな結果になったかは、よく分かるでしょう。同じ轍を踏んではいけません。
同じ意味で、環太平洋経済連携協定(TTP)に安易に加入して農産物の輸入を自由化して、日本の農業をつぶすことは、とんでもないことです。小規模な農業が自然と人間の橋渡しをして、自然保護に尽してきたことをもう一度再認識しなければなりません。その役割をこれから何がどのように担っていけるかという構想をきちんと描くことなしに、つぶしてしまいことはまったく危険なことです。
過疎化の問題は、他方で大都市、とりわけ首都圏の巨大化の危険と裏腹です。首都圏の地震は必ず起こると予想されています。そのときの被害がどれほどになるか、誰にも想像できません。東日本大震災の時でも、東京は帰宅難民でごった返しました。まして、直下型の地震が起こったら、どうなるか、そんなことは考えたくありませんが、それでも実際に必ず来ることです。
地震は自然災害だという論者は、それも仕方ないと言うのでしょうか。地震を自然災害とする論者を許せないのは、この点です。手を束ねて何もせずに、起ってしまえば、どんな巨大な被害も自然災害だから仕方ない、というのでは余りに無責任ではないでしょうか。それは、宗教の問題ではなく、政治の問題だ、とでも言うのでしょうか。しかし、政治に理念を示すのは宗教ではないのですか。人が必ず死ぬと分かっていながら、それは自分の役割ではないと言って、そっぽを向こうと言うのですか。それを放棄したら、宗教の役割とは一体何なのですか。何か起った後の「心のケア」だけが宗教の問題ではありません。もっと大事な、根本の理念を示すのこそ宗教の本当の役割ではないのですか。もし誰も耳を傾けてくれなくても、それでも最大限の努力をすべきではないのですか。
今日一番大事なことは、首都圏の巨大化と、それに対する地域の過疎化とのバランスをもう一度考え直し、人間と自然との相互関係を取り戻していくことだと思います。その過程で、伝統的な日本の宗教はもう一度重要な役割を果たしうるのではないかと考えます。伝統的な日本の宗教は、自然と人間の橋渡しをしてきました。それは、かつての小規模な農業が果たしていた役割と一体になっていたところがあります。今日、状況が変わり、伝統的な宗教も危機に瀕しています。それも仕方ないところがありますが、でも、その役割をもう一度考え直し、その役割をどのように新しい形で再構築できるか、これをきちんと考えることは急務だと思います。
震災を自然災害と考える論者は、医学で言えば、二、三十年前の西洋医学のようなもので、癌になれば、切るしかない、切って治らないものであれば、それは放置して、それでも延命は必ずする、というような考え方に近いものです。それは、病気を自然現象と見るからです。今日の医学は違ってきています。病気は単なる自然現象ではなく、患者という人間の生き方と密接に関わっています。患者の生き方に従って、さまざまな療法がありえます。その中で、医療従事者自身のあり方も問われています。そのような総合性の中で、病気というものが捉えられるようになってきています。
今の日本の宗教者はあまりに鈍感です。経典解釈でどうとか、世界の宗教界のトップリーダーがどういったとか、中観派解釈ではどうなるとか、それもよいでしょう。でも、大事なことは、その理論が現実にどのように適用できるか、ということです。それを他人の借り物の理論ではなく、本当に自分の身についた理論として考え抜くことです。現実に力を持たない理論は、理論としての役割を果たしません。
先日も被災地の浄土真宗の僧侶の方が、こんな大変な状況なのに、本山では、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」は違うなどと言っていて、何になるんだ、と怒っていました。復興のための努力が、「聖道の慈悲」であろうが「浄土の慈悲」であろうが、そんなことを議論するのは空虚です。世俗諦であろうが第一義諦であろうが、どちらでもよいことです。本当に現実に力を持つ理論を築かなければならないのです。
僕は、現実の力になろうと言う方であれば、どなたとでも力を合わせていきたいと思います。僕は、現場でボランティアとして力仕事をする力がありません。僕にできることは、少し離れた場で、歴史と現実を見つめ、そこからどのような理論を構築し、宗教的な理念を示すことができるか、ということに力を尽すことだけです。
自然災害論者の方も、その理論から現実への有効な対応ができるのであれば、協力します。違う説でも相互に議論し、認め合い、よりよい方向へ向って協力していくことは不可欠です。僕も自分の説が絶対とは思いません。と言うよりも、試行錯誤の連続ですので、欠点だらけでしょう。それは、批判を受けながら修正してきます。けれども、自然現象だから諦めるほかないというような無責任なことを言って努力を放棄するのは間違っています。あまつさえ、まじめに考えようという人を、議論もせずにツイッターとやらで嘲笑し、暴力的に抹殺しようというのであれば、それは仏教者とは言えない悪魔の所行であり、僕は絶対に許しません。断固闘います。